0-2。 ラウンド16のエジプト戦、王者は崖っぷちに立たされていた。 大会中に39歳になったメッシは、PKまで外した。 10年前なら、戦犯と呼ばれていただろう。 だが、誰も彼を責めない。それどころか、立て直したのは本人だった。反撃の1点目をアシストし、自ら同点弾。そして後半アディショナルタイム、ラウタロのクロスに頭で合わせたのはエンソ・フェルナンデスだった。 10年前、代表引退を口にしたメッシへ、Facebookに手紙を投稿した15歳の少年である。 物語というのは、こういう風にできているらしい。
思い出してほしい。いや、思い出したくない人の方が多いか。 バルセロナでは神だった。代表では、戦犯だった。 デビュー戦は退場で終わった。2007年のコパ・アメリカ決勝はブラジルに完敗。2010年の南アフリカでは無得点のまま、ドイツに0-4で散った。 自国開催の2011年コパはベスト8止まり。母国のスタンドから飛んできたのは、拍手ではなかった。 国歌を歌わない。アルゼンチン人というより、カタルーニャ人。「ペチョ・フリオ(冷めた男)」——当時の蔑称である。 バロンドールを積み上げる男に、そんな言葉が平気で浴びせられる時代が、確かにあったのだ。 2014年、W杯決勝で敗れた。2015年、コパ決勝で敗れた。2016年、3年連続の決勝でまた敗れた。しかも、自分がPKを外して。 「私にとって、代表は終わった」 28歳のメッシは、本当にそう言った。その夜、ブエノスアイレスでは雨のオベリスコに人々が集まり、行かないでくれと叫んだ。
その翌日である。 リーベルの下部組織にいた15歳の少年が、Facebookに長い文章を投稿した。 ——こんなにひどい僕らが、どうやって君を引き留められるだろう。君が背負うプレッシャーの1%さえ、僕らは経験したことがないのに。 謝罪にも似た、懇願だった。少年の名は、エンソ・フェルナンデス。6年後、カタールでメッシのパスから代表初ゴールを決め、その胸に抱きつくことになる。 彼だけじゃない。 コルドバの人口2400人の町カルチンには、2011年、滞在中の代表に食い下がり、メッシとの写真を1枚だけ手に入れた11歳がいた。土のグラウンドで「夢はW杯。アイドルはレオ・メッシ」と語る映像も残っている。フリアン・アルバレス。11年後、カタールの準決勝で、メッシの60メートルの独走からゴールを決めた男だ。 テネリフェには、メッシのバルサデビューの38日前に生まれた赤ん坊がいた。ニコ・パス。20年後、代表デビュー戦でメッシのハットトリックをアシストし、その日のユニフォームを元代表の父に渡した。 憧れは、手紙になり、写真になり、映像になり、ユニフォームになった。形は違っても、たぶん全部同じものだ。 マラドーナと比べてメッシを裁いた世代の、次。比較対象を持たず、メッシそのものを偶像として育った最初の世代。 それが、いまの代表の正体である。
復帰しても、すぐには報われなかった。2018年ロシアはベスト16。2019年のコパも準決勝で散った。敗因は、いつも10番に求められた。 潮目が変わったのは2021年、マラカナンだった。 ブラジルを破って28年ぶりのタイトル。メッシにとって、フル代表では初めての優勝である。 カタールの、わずか1年前。 つまり「憎まれる10番」から「愛される10番」への転換は、20年を超える代表キャリアの、最後の5年で起きたことにすぎない。 今となっては信じられない。でも、事実なのだ。 カタールで忘れられない光景がある。敵がボールを持った瞬間、フリアン・アルバレスがメッシを追い越して、猛然とプレスに走る姿だ。 嫌々ではない。義務でもない。あれは喜びだった。憧れの人の分まで走れることの、喜び。 エンソは手紙を投稿し、フリアンは走り、デ・パウルに至ってはクラブまでマイアミに移した。 そしてメッシは今大会、マイクを向けられるたび、仲間への賛辞と感謝ばかり口にしている。 幸せそうなのだ。あれほど憎まれた男が。その表情は、2016年のあの夜とは別人のものだ。
6大会連続のW杯。今大会ではW杯通算得点の史上最多記録も塗り替えた。マラドーナの「神の手」と5人抜きから、ちょうど40年目の夏に。 ただ、わかっていることがひとつだけある。 青と白の10番を見ていられる時間は、もう長くない。 39歳。次のW杯は、おそらくない。誰もが知っていて、誰もあまり口にしない。 優勝すれば、最高の結末。敗れれば、それが見納めになるのだろう。どちらに転んでも、終わりはすぐそこまで来ている。 エジプト戦の92分、エンソのヘディングがネットを揺らした瞬間、僕は勝利の喜びより先に安堵していた。 まだ終わらない。この物語の続きを、まだ見ていられる。 幸せそうなメッシを見るのは、幸せだ。 そして終わりが見えているからこそ、その幸せはどうしようもなく切ない。 だから、あの手紙の少年に倣って、鏡の前で自問しておこうと思う。 この幸福な時間に、ふさわしい観客でいられているか、と。
