発表された瞬間、誰もが最初に探したのは「入った選手」ではなく「いない選手」の名前だったはずだ。
三笘薫。ブライトンで圧倒的な個を示してきたウイングの名前が、26人のリストにない。先週末のプレミアリーグ、ウォルバーハンプトン戦での太もも負傷が原因だと、記事は伝えている。森保一にとって三笘は「攻撃の主要な切り札」——そう表現されるほどの存在が、大会開幕まで間に合わない。
タイミングの残酷さ、とはこういうことを言う。
ただ、今回はその喪失感だけを書くつもりはない。
三笘の離脱はもちろん痛い。だが、そこに目を奪われていると、別の問いを見逃す。三笘がいない26人の中で、誰が「日本の顔」になるのか。そしてその問いと向き合ったとき、堂安律という名前が自然と浮かんでくる。
W杯予選16試合のうち12試合に出場し、うち10試合でスタメン——これは数字として並べれば地味に映るかもしれない。だが逆に考えると、チームが最も大切にした試合のほとんどで、彼はピッチに立ち続けたということだ。予選の主軸として、静かに、しかし確実に役割を担ってきた選手、それが堂安だ。
ドリブラーとして鮮烈なイメージを残した20代前半から、彼のキャリアは興味深い変容を遂げてきた。
PSVでの輝き、ビーレフェルトへのローン、フライブルクへの移籍——どれも順風満帆とは言い難い足跡だ。フライブルクでは着実にポジションを掴み、2024年からはアイントラハト・フランクフルトへ。ブンデスリーガという舞台で経験を積み上げながら、気づけば27歳を迎える夏に2度目のW杯を踏もうとしている。
初めてW杯に出た頃の彼と、今の彼は、たぶん根本的に違う。若い頃のキレと衝動は、ゲームを読む静けさに変わっていく。それはどの選手にも起きることで、良い方向に作用するかどうかは、その選手のサッカーへの向き合い方次第だ。堂安の場合、予選での起用法を見る限り、森保はその変化を信頼しているように映る。
ピッチに立ち続けてきた人間なら分かる——監督に「使われ続ける選手」と「使われる選手」は、見た目は同じでも意味が全然違う。
グループFの相手はオランダ、チュニジア、スウェーデン。
三笘抜きで、この山をどう超えるか。当然、戦い方の設計は変わる。三笘のように単独で局面を打開できる選手がいない以上、チームとしての連動性と、複数の選手がそれぞれ役割を果たす総合力が問われる。
ブンデスリーガ勢6人という数字も、そういう文脈で読むと意味が変わってくる。バイエルンの伊藤洋輝から、ブレーメンの菅原由勢、フランクフルトの堂安、マインツ、フライブルク、ヴォルフスブルクとそれぞれのクラブで経験を積んできた選手たち——特定のスターへの依存ではなく、層の厚みで戦う集団の輪郭が見える。
それが三笘の不在を「致命傷」ではなく「試練」として受け止める根拠になるかどうかは、6月のダラスとモンテレイのピッチが答えを出す。
三笘の名前がリストにない寂しさは本物だ。
でも同時に、この26人が「三笘のいる日本」の代替品ではなく、「三笘がいなくても成立する日本」を証明しようとしているなら——それはそれで、見届ける価値のある物語だと思う。
堂安が2度目のW杯でどんな顔をしているか、少し気になっている。
