Association Sportive de Monaco Football Club
海に突き出した岩山の上に広がる旧市街モナコ・ヴィル。崖の上に大公宮殿や旧市街の家並みが並ぶ
モナコ・ヴィルの宮殿前広場から見たエルキュール港とモンテカルロの街。背後に山が迫る
山の上から見下ろしたフォンヴィエイユ地区。中央にスタッド・ルイ・ドゥが見える
写真: Diego Delso(2016年)・CC BY-SA 4.0・Commons / Spike(2019年)・CC BY-SA 4.0・Commons / avu-edm(2011年)・CC BY 3.0・Commons(いずれもトリミング加工)
地中海に面した世界で2番目に小さな国、モナコ公国のクラブ。国はフランスに囲まれ、クラブもフランスのリーグで戦い、リーグ・アン優勝8回を誇る。アンリやムバッペを育てたアカデミーでも知られ、2022年に加入した南野拓実はクラブ史上初の日本人選手となった。
📅 クラブ紹介(歴史・街・スタジアムなど)は2026年11月5日時点の情報です(出典41件)。試合・順位・今季成績は毎日自動で更新しています。
2026-27シーズンのリーグ・アンで7位(18チーム中・勝ち点15)順位表 →
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
モナコのサッカーの歴史は1924年より前にさかのぼる。前身の一つ「エルキュリス・モナコ」は1903年に生まれ、1917年の第1回クープ・ドゥ・フランスにも出場した。1919年8月1日には、このエルキュリスと周辺のチームが合流した「ASモナコ・フットボール」がフランスサッカー連盟に登録されている。一方、クラブが創設日として祝うのは、サッカー部門が総合スポーツクラブ「アソシアシオン・スポルティーヴ・ド・モナコ」に加わった1924年8月で、2024年に創設100周年を祝った(創設日は公式サイト内でも23日と24日の表記が混在する)。
1948年にプロクラブとして2部に復帰し、1953年に初めて1部へ昇格。リュシアン・ルデュック監督のもとで1960年にクープ・ドゥ・フランスを初制覇すると、翌1960-61シーズンに初のリーグ優勝を果たし、1962-63シーズンにはリーグとカップの2冠を達成した。赤と白の斜めのライン「ディアゴナル」のユニフォームが生まれたのもこの頃で、レーニエ3世の提案を受けてグレース公妃が国章の菱形をもとに考案したとクラブは紹介している。
1987年に就任したアーセン・ヴェンゲル監督は、就任1年目の1987-88シーズンにリーグ優勝、1991年にクープ・ドゥ・フランスを制し、アフリカから獲得したジョージ・ウェアらを育てた。ヴェンゲルは1994年9月に退任した後、日本の名古屋グランパスエイトを率いている。その後もジャン・ティガナ監督のもと1996-97シーズン、クロード・ピュエル監督のもと1999-2000シーズンにリーグを制した。欧州でも1991-92シーズンにカップウィナーズカップ準優勝、ディディエ・デシャン監督が率いた2003-04シーズンにはチャンピオンズリーグ決勝まで勝ち進んだ(準優勝)。
2003年には約5,000万ユーロの負債を理由に2部降格処分を受けかけ(上訴で補強禁止に軽減)、2010-11シーズンに18位で2部へ降格した。同年12月に実業家ドミトリー・リボロフレフが株式の3分の2を取得し、2012-13シーズンに2部優勝で1部復帰。レオナルド・ジャルディム監督のもと、ファルカオ主将とムバッペらの攻撃陣で2016-17シーズンに17年ぶりのリーグ優勝を果たし、チャンピオンズリーグでも準決勝に進んだ。現在の株主はリボロフレフ側の会社(66.67%)とモナコ公家のグリマルディ家(33.33%)。
近年は2023-24シーズンに2位、2024-25シーズンに3位と上位を保ち、2025-26シーズンはチャンピオンズリーグで決勝トーナメントのプレーオフに進んだが、パリ・サンジェルマンに2試合合計4-5で敗れた。リーグ戦は7位にとどまってCL出場権を逃し、2025年10月にアディ・ヒュッター監督の後を継いだセバスティアン・ポコニョーリ監督は2026年6月1日に解任された。2026年7月6日、元ブラジル代表DFで、フラメンゴでコパ・リベルタドーレスなどを制したフィリペ・ルイスが新監督に就任した。
エンブレムクラブの象徴として知られるのはユニフォームで、赤と白の斜め二分割の「ディアゴナル(La Diagonale)」が使われている。1960年のクープ・ドゥ・フランス優勝の後、それまでの赤白の縦縞が他クラブと似ていたことからレーニエ3世が変更を提案し、グレース公妃が国章の菱形をもとに斜めのデザインを考えたとされる。このユニフォームで迎えた1960-61シーズンにクラブ初のリーグ優勝を果たし、以後定着した。当初のユニフォームにエンブレムは付いておらず、数年後に加えられた。ディアゴナルの名前はアカデミーの施設名にも使われている。
愛称: ルージュ・エ・ブラン(Les Rouge et Blanc/「赤と白」) / レ・モネガスク(Les Monégasques/「モナコの人たち」) / ル・ロシェ(Le Rocher/「岩」)
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | リーグ・アン | 3 | 2022年1月にニコ・コヴァチ監督からフィリップ・クレモン監督に交代。クープ・ドゥ・フランスはベスト4、ヨーロッパリーグはラウンド16[7][8] |
| 2022-23 | リーグ・アン | 6 | 南野拓実の加入1年目。チャンピオンズリーグは予選3回戦で敗退し、ヨーロッパリーグは決勝トーナメントのプレーオフで敗退[7][9] |
| 2023-24 | リーグ・アン | 2 | アディ・ヒュッター監督の1年目。2位でチャンピオンズリーグ出場権を獲得。南野がサポーター投票のシーズン最優秀選手に[7][10][25] |
| 2024-25 | リーグ・アン | 3 | 創設100周年のシーズン。チャンピオンズリーグは決勝トーナメントのプレーオフで敗退[7][11] |
| 2025-26 | リーグ・アン | 7 | 2025年10月にヒュッター監督からポコニョーリ監督に交代。チャンピオンズリーグは決勝トーナメントのプレーオフでパリ・サンジェルマンに合計4-5で敗退。南野は12月に左膝前十字靭帯を断裂[12][13][26] |
クラブに最初の黄金期をもたらした監督。1960年のクープ・ドゥ・フランス初優勝に続き、リーグ優勝を1961・1963・1978年の3度勝ち取った。[1][17]
公式戦223得点はクラブ歴代最多。1977-78シーズンのリーグ優勝に貢献し、フランス1部通算299得点は歴代最多記録として残る。[1][16]
プロ生活のすべてをモナコで過ごした守護神。公式戦755試合出場はクラブ歴代最多で、リーグ優勝3回とクープ・ドゥ・フランス優勝3回を経験した。1982年W杯ではフランス代表として7試合中6試合に先発した。[1][15]
1987-88シーズンのリーグ優勝と1991年のクープ・ドゥ・フランス優勝を達成。モナコを去った翌1995年には名古屋グランパスエイトの監督に就任し、のちにアーセナルで長期政権を築いた。[18]
ヴェンゲル監督がアフリカから獲得し、公式戦149試合66得点。1991年のクープ・ドゥ・フランス優勝に貢献した。1995年にアフリカ出身選手として初めてバロンドールを受賞し、引退後はリベリア大統領(2018-2024)を務めた。[19]
13歳でスカウトされたアカデミー出身。17歳でデビューし、ヴェンゲル監督のもと左ウイングとして育って1996-97シーズンのリーグ優勝に貢献した。2018-19シーズンには短期間ながら監督も務めた。[20]
2013年にアトレティコ・マドリードから加入。マンチェスター・ユナイテッドとチェルシーへの期限付き移籍を経て復帰した2016-17シーズンに主将としてリーグ優勝を果たした。公式戦83得点はクラブ歴代5位。[1][21]
14歳でアカデミーに入り、2015年12月にアンリの記録を破るクラブ史上最年少の16歳でトップチームにデビュー。2016-17シーズンは公式戦26得点でリーグ優勝とCLベスト4の原動力になった。[22]
加入1年目の2022年11月、新しい国・リーグ・言葉への適応は最初は難しかったが、コミュニケーションも良くなり、今は調子がいいと語った。[29]
— 南野拓実
2024年7月のクラブ公式インタビューで、モナコを「素晴らしい街」と呼び、ここでは本当に家にいるように感じると話した。チームは大きな家族のようで、それが良いプレーをするうえで一番大切だという。サポーター投票の最優秀選手に選ばれたことを誇りに思うとも語った。[28]
— 南野拓実
2027年までの契約延長を決めた2025年3月、できるだけ長くモナコにいたいと話した。街にも人にもなじんでおり、近くに住む日本人の友人がいること、街を見下ろすテート・ド・シアンからの眺めがお気に入りだと明かした。[27]
— 南野拓実
日本だと富山県魚津市(約3.7万人)くらいの規模。ただし面積は約2.08平方キロで、魚津市の100分の1ほど
フランスの地中海沿岸、コート・ダジュールに面した都市国家で、面積はバチカンに次いで世界で2番目に小さい。1297年以来、一時の中断をはさんでグリマルディ家が治めている。公用語はフランス語で、EUには加盟していないがユーロを使う。人口3万8,423人のうちモナコ国籍を持つ人は9,262人で、多くの国籍の人々が暮らす。
海に突き出した岩山の上にある旧市街モナコ・ヴィル(ル・ロシェ)には大公宮殿があり、海洋博物館も建つ。港を挟んだ向かいがカジノで知られるモンテカルロ地区で、カジノは19世紀半ばに開業し、運営会社ソシエテ・デ・バン・ド・メールは1863年に設立された。スタジアムのあるフォンヴィエイユ地区は、1970年代に海を埋め立てて造られた土地だ。
街の中の公道を走るF1モナコGPは1929年に始まり、1950年のF1世界選手権創設時から開かれている伝統のレースで、全長3.337キロのコースはモンテカルロとラ・コンダミーヌの街路を使う。気候は温暖な地中海性気候で、夏は乾燥し、年間の日照時間は平均約2,575時間と長い。
フォンヴィエイユ地区の埋め立て地に建つスタジアムで、1985年1月25日にレーニエ3世の臨席のもと開場した。名前は旧スタジアムが建てられた当時の君主ルイ2世にちなむ。収容人数は16,360人とされるが、18,500人前後とする資料もある。最多観客は1990年4月3日のサンプドリア戦の2万人。
施設の大部分は地下にあり、ピッチの真下には大きな駐車場、さらにバスケットボールなどに使う多目的アリーナ(サル・ガストン・メドサン)とプールも備える複合施設になっている。1998年から2012年までUEFAスーパーカップの会場となり、陸上のダイヤモンドリーグ「エルキュリス」も毎年開かれる。
1939年に開場した初代のスタッド・ルイ・ドゥ。現在のスタジアムは別の場所(フォンヴィエイユの埋め立て地)に新たに建てられ、名前を引き継いだ。
ユニフォームの斜めのラインから名前を取った育成組織。スタジアムの隣に赤と白の6階建ての専用施設があり、2020年から使われ、2022年9月8日に正式に開所した。2022-23シーズンはU-17・U-19などの69人の選手がここで暮らし、指導・医療・学業などを支えるスタッフが60人いた。以前は選手たちがスタッド・ルイ・ドゥの中で生活していた。
クラブはこのアカデミーからW杯優勝メンバーを5人輩出したとしている(1998年のアンリ、プティ、トレゼゲ、テュラム、2018年のムバッペ)。トップチームの練習拠点は、フランス側の隣町ラ・テュルビにある「パフォーマンス・センター」で、総工費約6,000万ユーロをかけて2022年9月5日に正式オープンした。
主な出身選手: ティエリ・アンリ、エマニュエル・プティ、ダヴィド・トレゼゲ、リリアン・テュラム、キリアン・ムバッペ
人口4万人に満たない小国のクラブで、熱心なサポーターの数は多くない。スタンドは比較的落ち着いていて、相手をけなすより自チームの応援に徹するとされる一方、ホームでのダービーでもスタジアムがアウェーのサポーターに占められることがある。
それでもクラブはサポーターの声を大切にしており、サポーター投票で選ぶシーズン最優秀選手賞を設けている。2023-24シーズンには南野拓実が552票(得票率42%)を集めて選ばれた。
日本からは欧州の主要空港で乗り継ぎ、ニース・コート・ダジュール空港へ。空港からモナコまでは約20キロで、路線バス110番(空港〜モナコ)で約40分、タクシーで約30分、ヘリコプターなら約7分。
スタジアムへは、ニースなどと結ぶ鉄道のモナコ・モンテカルロ駅から歩いて約15分。クラブは帰りの列車の切符を事前にネットで買っておくよう勧めている。
チケットはクラブ公式サイトのオンライン販売で購入でき、スマートフォンのウォレットに入れられるMチケットにも対応している。購入時は観戦者の名前を正しく入力する必要がある。一般入場ゲートはキックオフの2時間前に開く。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。