Koninklijke Beerschot Voetbalclub Antwerpen
1920年アントワープ五輪当時のスタジアム正門
1920年アントワープ五輪の開会式。スタジアムのフィールドに各国の選手団が並ぶ
スヘルデ川の対岸から見たアントウェルペン旧市街の川辺。中央の古城はステーン城
写真: Unknown(1920年)・Public domain・Commons / Agence de presse Meurisse. Agence photographique (commanditaire)(1920年)・Public domain・Commons / Ludvig14(2022年)・CC BY-SA 4.0・Commons(いずれもトリミング加工)
ベルギーの港町アントウェルペンの南部、キール地区を本拠とする紫と白のクラブ。1920年アントワープ五輪のメイン会場だったスタジアムで戦い、戦前に7度のリーグ優勝を誇る旧ベールスホットの名と伝統を受け継いでいる。2025年に日本の持株会社が全株式を取得し、原口元気、ポープ・ウィリアム、永長鷹虎ら日本人選手とともに1部復帰を目指している。
📅 クラブ紹介(歴史・街・スタジアムなど)は2026年11月5日時点の情報です(出典43件)。試合・順位・今季成績は毎日自動で更新しています。
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
クラブの起点は1899年9月3日。実業家エルネスト・グリサールがアントウェルペン南部のキール地区に持っていた競馬場の敷地を、息子のアルフレッドが総合スポーツ施設に整え、「ベールスホット・アスレティック・クラブ」を設立した。1900年2月にサッカー部門が生まれ、クラブカラーには設立直後に亡くなった父エルネストを悼む喪の色として紫が選ばれた。1900年には隣のアントワープFCの主力選手の多くがベールスホットへ移り、これが現在まで続く両クラブの因縁の始まりとされる。本拠地は1920年アントワープ五輪のメイン会場に選ばれて「オリンピック・スタジアム」となり、この大会で初めて五輪旗が掲げられ、選手宣誓も初めて行われた。
1920〜30年代が黄金期で、1921-22シーズンの初優勝から1938-39シーズンまでにリーグ優勝7回。点取り屋レイモン・ブレインが攻撃を引っ張った。戦後は1954年に第1回ベルギー最優秀選手賞(ゴールデンシュー)を受けたリク・コッペンスが人気を集め、1968年にはオランダ語の名称「K. ベールスホット VAV」に改めた。1970年代にはベルギーカップを1971年と1979年に制し、西ドイツ代表のローター・エメリッヒ、ポーランド代表GKヤン・トマシェフスキ、ハイチ代表のエマニュエル・サノンら各国の代表選手がキールでプレーした。
1981年に八百長の疑いで強制降格を受けてから低迷が始まり、1991年には財政難で3部まで落ちた。経営は立ち直らず、旧ベールスホット(登録番号13)は1999年に解散。同じ年、市北部のジェルミナル・エケレン(登録番号3530)がキールへ移って「ジェルミナル・ベールスホット」となり、2005年にベルギーカップを制した。この時代の下部組織からはヤン・フェルトンゲン、トビー・アルデルヴァイレルト、トーマス・フェルマーレンらが育っている。2011年に「ベールスホットAC」へ改称したが、2013年に破産して消滅した。
サポーターの働きかけで、2013年に地元の州リーグ1部(5部相当)にいたKFCOウィルライク(1921年創設、登録番号155)がベールスホットの名と紫・白の色を引き継いだ。発足から数週間で6,000枚を超える年間チケットが売れ、州リーグの優勝を決めた試合には約1万2,000人が集まった。4季連続の優勝で2部まで駆け上がり、建設会社DCAとサウジアラビアのアブドゥッラー王子の出資を受けて、2019年に旧ベールスホットの登録番号13を買い戻し、現在のクラブ名に改めた。2019-20シーズンにはエルナン・ロサダ監督のもと、昇格決定戦でOHルーヴェンを破って1部に昇格した。
その後は1部と2部を行き来している。2021-22シーズンに最下位で降格し、2023-24シーズンにディルク・カイト監督のもとで2部優勝を果たしたが、翌2024-25シーズンは再び最下位で降格した。2025年9月24日、日本の持株会社 Kinpoudou Holdings がユナイテッド・ワールドなどから全株式を取得。2025-26シーズンは2部3位から昇格プレーオフ決勝まで進んだが、ロンメルに2戦とも1-3で敗れて昇格を逃した。2026-27シーズンは第9節終了時点で首位に立ち、ベルギーカップ(クロッキーカップ)では1部の強豪アンデルレヒトを破って16強に進んでいる。
エンブレム現在のエンブレムは2019年の改称時に発表されたもので、1899年の創設時のロゴを現代風に作り直したデザイン。爪を立てた熊と、クラブの歴史を表す3つのドングリが描かれている。紫と白のクラブカラーは創設当初からのもので、紫は創設直前に亡くなったエルネスト・グリサールへの喪の色とされる。
愛称: デ・マンネケス(De Mannekes、「小さな男たち」) / キールのネズミ(De Kielse Ratten) / パープル・ホワイト・アーミー(Purple White Army)
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | ジュピラー・プロ・リーグ(1部) | 18 | 最下位で2部へ降格。鈴木武蔵の在籍2年目[1][24] |
| 2022-23 | チャレンジャー・プロ・リーグ(2部) | 3 | [1] |
| 2023-24 | チャレンジャー・プロ・リーグ(2部) | 1 | 2023年12月に就任したディルク・カイト監督のもとで優勝し、2024年4月7日に1部昇格が決定[1][3][23] |
| 2024-25 | ジュピラー・プロ・リーグ(1部) | 16 | 最下位で2部へ降格。ベルギーカップはベスト8[1][23] |
| 2025-26 | チャレンジャー・プロ・リーグ(2部) | 3 | 2025年9月に Kinpoudou Holdings がクラブを買収し、原口元気が加入。昇格プレーオフ準決勝でマースメヘレンを延長の末に破った(決勝点は原口)が、決勝でロンメルに2戦とも1-3で敗れ、昇格を逃した[9][10][11][12] |
黄金期のエースで、2度の在籍でリーグ戦通算255試合210得点。1927-28・1928-29シーズンの得点王。カフェ経営を理由に協会から出場を制限され、チェコスロバキアのスパルタ・プラハへ渡ってベルギー初のプロ選手となった。復帰後の1938・1939年の連覇にも貢献した。[2][16]
389試合261得点を挙げた戦後のスター。1954年に第1回ゴールデンシュー(ベルギー最優秀選手賞)を受賞し、得点王に2度輝いた。1960年のサントスとの親善試合では、ペレが真っ先に祝福したというゴールを決めている。[2][17]
1966年W杯準優勝の西ドイツ代表FW。プロ化が進んだ時代の大型補強で、加入1年目の1969-70シーズンに29得点でベルギー1部の得点王になった。[2][18]
両親とともにアンダルシアからアントウェルペンへ移り、ベールスホットの下部組織で育った技巧派。1979年のベルギーカップ優勝に貢献し、のちにアンデルレヒトやレアル・マドリードでもプレーした。[2][19]
1974年W杯で3位に入ったポーランドの守護神で、大会最優秀GKに選ばれた。ベールスホットではリーグ戦85試合に出場し、1979年のベルギーカップ決勝でもゴールを守った。[2][20]
1974年W杯のイタリア戦で、GKディノ・ゾフの連続無失点を1,142分で止めたゴールで知られるハイチ代表FW。ベールスホットでは142試合43得点を挙げ、1979年のベルギーカップ決勝で決勝点をアシストした。[2][21]
2019年10月に就任し、2019-20シーズンの昇格決定戦でOHルーヴェンを2戦とも破って、新生ベールスホットを初めて1部に導いた。2021年1月にMLSのDCユナイテッドへ移った。[2][22]
リヴァプールなどで活躍し、2010年W杯準優勝を経験した元オランダ代表FW。2023年12月に監督に就任して2023-24シーズンの2部優勝と1部昇格を果たしたが、翌季は最下位で降格し、2025年6月に退任した。[23]
2020年10月のアントワープ・ダービーの後、街にとっても特別な試合だと仲間に教えられたと語り、スタジアムへ向かうバスを待つサポーターの熱気で気持ちが高ぶったと振り返った。[25]
— 鈴木武蔵
2025年11月、軽いケガを伝えると観客席のファンが肩をたたいて回復を願ってくれたと話し、「ここのファンもみんな温かい」と語った。ベルギーでの生活や人間関係も楽しめているという。[31]
— 原口元気
移籍はほとんど直感で決めたが、来てみると本当にいいクラブで「“当たり”でした」と振り返った。アントウェルペンは非常に面白い街で、浦和のようにサッカーが根付いているとして、浦和のサポーターにも訪れてほしいと話した。[32]
— 原口元気
上下関係が厳しくない、家族的でフラットなクラブだと話した。試合後に大音量の音楽とピザで盛り上がる習慣は新鮮だったという。[33]
日本だと八王子市(約57.4万人)くらいの規模
ベルギー北部、スヘルデ川沿いに広がる港町で、市は10の地区(ディストリクト)に分かれている。ベールスホットの本拠地キールは中心部の南、環状道路R1のすぐ外側にある地区で、人口は約2万人(2025年に20,712人)。
キールは庶民的な下町の雰囲気を持つ多文化の地区。1920年の五輪でスタジアムが建ってから、周辺の通りには競技にちなんだ名前が付けられ、「スポーツ通り」と呼ばれている。1930年には万国博覧会の会場にもなった。
建築家レナート・ブラームが1953年に設計した、柱の上に建つ集合住宅「ウーンエーンヘイド・キール」など、戦後の公営住宅建築でも知られる。地区の端には国鉄のアントウェルペン南駅があり、トラムで中心部と結ばれている。
キール地区のアトレーテン通りに建つスタジアム。もとはベールスホットの本拠地で、五輪招致に向けて旧グラウンドの隣に新しい競技場が建てられ、1920年アントワープ五輪のメイン会場としてさらに拡張されて「オリンピック・スタジアム」と改称された。五輪では陸上競技やサッカー、ホッケー、ラグビーなどが行われ、ベルギー代表がサッカーで金メダルを獲得している。
五輪時の収容は約3万人(うち立ち見2万人)だった。1998年に全面改修が決まり、陸上トラックを撤去してサッカー専用になった。現在は全席座席で12,771人を収容する。最多観客記録は2007年11月11日、当時のジェルミナル・ベールスホットがアンデルレヒトに2-0で勝った試合の13,769人。
2011-12シーズンからは、旧ベールスホットの登録番号「13」にちなんでピッチの大きさを13×8=104メートル、13×5=65メートルにしている。この地では1899年以来、旧ベールスホット、ジェルミナル・ベールスホット、現在のクラブと、「ベールスホット」を名乗るクラブが代々プレーしてきた。
サポーターとチームは「デ・マンネケス」や「キールのネズミ」の愛称で呼ばれる。2013年に旧クラブが消滅した際、新しいクラブづくりを主導したのもサポーターで、州リーグから再出発した初年度もホームの平均観客は約7,000人を数えた。
最大のライバルは同じ街のロイヤル・アントワープ。1900年にアントワープの主力の多くがベールスホットへ移ったことに始まる因縁で、「アントワープ・ダービー」は街を二分する一戦になる。熱が行き過ぎることもあり、2024年9月29日のアウェーでのダービーでは、0-4の劣勢に一部サポーターがピッチへ花火を撃ち込み、試合は75分で打ち切られた。
日本からはブリュッセル空港が玄関口になる。全日空が成田からの直行便を運航しており、空港駅からはアントウェルペン行きのインターシティ(IC08・IC35)が出ている。
スタジアムの住所は Atletenstraat 80, 2020 Antwerpen。周辺は駐車場が少ないため、クラブは公共交通機関を勧めている。トラム2・4・6・10番がスタジアム方面を通り、パーク&ライド「P+R Olympiade」(約200台)からは徒歩約13分。
チケットは公式チケットサイト(ticketing.beerschot.be)で買える。ベルギーの法律で全チケットに氏名の登録が必要で、購入前に本人確認を済ませる。外国籍の人はオンラインの本人確認サービス「Onfido」を使える。認証済みのアカウントでは1回に4枚まで購入できる。日本語の公式サイト(beerschot.jp)もあり、試合結果や観戦案内を日本語で読める。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。