Havre Athletic Club
ノルマンディー地方の港町ル・アーヴルを本拠とする、フランスで最も古い歴史を持つクラブのひとつ。「ドワイエン(最古参)」を名乗る伝統と、マンダンダやマレズらを送り出した育成で知られ、2023年から1部リーグ・アンで戦っている。2025年に瀬古歩夢がクラブ史上初の日本人選手として加入し、2026-27シーズンは中村草太・水多海斗を加えた日本人3人が在籍している。
📅 クラブ紹介(歴史・街・スタジアムなど)は2026年11月5日時点の情報です(出典44件)。試合・順位・今季成績は毎日自動で更新しています。
2026-27シーズンのリーグ・アンで18位(18チーム中・勝ち点2)順位表 →
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
クラブは長く「1872年創設」を掲げ、フランス最古のクラブを意味する「ドワイエン」を名乗ってきた。1872年9月、港町に暮らすイギリス人たちが「ル・アーヴル・フットボール・クラブ」をつくったのが始まりとされるが、当時プレーしていたのはサッカーとラグビーが混ざった「コンビネーション」という競技だった。1884年10月20日に総合スポーツクラブとしてル・アーヴル・アスレティック・クラブ(HAC)が発足し、法的な地位を得てサッカー部門が活動を始めたのは1894年。歴史家の研究ではこの1894年が現在のサッカークラブの創設年とされ、「最古」という称号には異論もあるが、それでも現存するフランスのクラブで最も古い部類に入ることは変わらない。クラブは2022年に創設150周年を祝っている。
1899年、それまでパリのクラブだけで争われていた全国選手権に地方から初めて招かれ、準決勝の相手が棄権、決勝の相手も試合を拒否したため、1試合も戦わずに優勝した。パリ以外のクラブとして初めての全国王者で、翌1900年には決勝でクラブ・フランセを1-0で破って連覇した。1933年にプロ化し、1938年に2部優勝。戦後は1950-51シーズンの1部3位がクラブ史上最高順位で、1958-59シーズンには2部優勝に加え、決勝で1部のソショーを再試合の末3-0で破ってクープ・ドゥ・フランスを制した。
1960年代には財政難からプロの地位を手放し、地域リーグまで落ちた時期もある。1971年に本拠地をスタッド・ジュール・デシャゾーへ移し、1979年に就任したジャン=ピエール・ユロー会長のもとで1981年にプロへ復帰。1984年に育成センターを開設し、1985年に1部へ昇格した。2000年までの大半を1部で過ごし、1991-92シーズンには7位に入った。この時代にはヴィカシュ・ドラソーら地元育ちの選手が台頭した。
2000年代は1部と2部を行き来した。2008年には復帰した生え抜きのGKクリストフ・ルヴォー主将と、28得点で得点王になったギヨーム・オアロの活躍で2部優勝を果たしたが、1年で降格。そこから2部での戦いが14シーズン続いた。この間の2012年に新本拠地スタッド・オセアンが開場し、2015年にはアメリカ人のボブ・ブラッドリーがフランスのクラブで初めてのアメリカ人監督に就任。2016年は得点数の差で、2018年は昇格プレーオフで1部復帰を逃した。
2022年に会長ジャン=ミシェル・ルシエ、スポーツディレクターのマチュー・ボドメール、監督ルカ・エルスナーの新体制が発足すると、2022-23シーズンにリーグ2で32試合無敗の記録をつくって6度目の2部優勝を果たし、2023-24シーズンからリーグ・アンへ戻った。その後は3季連続で残留し、2025年6月には米国系のブルー・クロウ・スポーツ・グループがクラブを取得。2026-27シーズンは開幕から9試合未勝利で最下位に沈み、10月31日にクラブはOB監督のディディエ・ディガールを停職処分とし、会長も辞任。育成センター長のジャイール・カラムが暫定監督に就いた。
エンブレムエンブレムにはクラブカラーの空色と紺に加え、ル・アーヴル市の象徴であるサラマンダー(火の中でも生きるとされる伝説上のトカゲ)が描かれている。サラマンダーは、1517年に港町を築いたフランス王フランソワ1世の紋章で、1520年に王自ら街に与えたもの。現在のエンブレムは新スタジアム開場翌日の2012年7月13日に発表された。空色と紺の2色は、創設者のイギリス人たちの母校であるケンブリッジ大学(空色)とオックスフォード大学(紺)にちなむと伝えられてきたが、裏付ける史料はなく、伝説の可能性もあるという。1899年の写真には、この2色を縦に半分ずつ配したユニフォームが写っており、HACは現在もこの伝統の柄を使い続けている。
愛称: ル・ドワイエン(le doyen=最古参) / シエル・エ・マリーヌ(Ciel et Marine=空色と紺) / アックメン(Hacmen)
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | リーグ2 | 8 | ポール・ル・グエン監督の3季目。昇格プレーオフ圏をうかがったが、最後の4試合で4連敗した[9][12] |
| 2022-23 | リーグ2 | 1 | ルカ・エルスナー監督の1年目。38試合で19失点(2部の最少失点タイ記録)、シーズン32試合無敗で6度目の2部優勝を果たし、14シーズンぶりに1部へ昇格[1][9][13] |
| 2023-24 | リーグ・アン | 15 | 1部復帰1年目で残留。クープ・ドゥ・フランスはベスト16でストラスブールに敗退[9][14] |
| 2024-25 | リーグ・アン | 15 | OBのディディエ・ディガール監督の1年目。前半戦を降格圏で折り返したが、最終節ストラスブール戦に3-2で勝ち、試合終了間際に残留を決めた[9][15] |
| 2025-26 | リーグ・アン | 14 | 瀬古歩夢の加入1年目。7勝14分13敗で3季連続の残留。失点は前季の71から44に減った[16][21][24] |
1954年W杯にも出たフランス代表FW。2部所属だったチームの一員として1959年のクープ・ドゥ・フランスを制し、同年の2部優勝とシャレンジュ・デ・シャンピオン制覇にも貢献した。[1][41]
ル・アーヴル近郊のアルフルール生まれで、クラブの育成出身。1部でリーグ戦137試合に出場して司令塔として頭角を現し、1998年に2,800万フランの移籍金でリヨンへ移った。[9][36]
リーグ戦76得点(公式戦81得点)のクラブ歴代最多得点者。2005-06・2006-07シーズンに2年連続で2部得点王(いずれも同数1位)となり、2008年の2部優勝にも貢献した。[1][42]
育成センター出身のGK。2005年8月にリーグ戦デビューを果たし、2シーズンで正GKとして計67試合に出場した。2007年夏にマルセイユへ移籍し、2018年W杯優勝メンバーになった。[4][37]
ル・アーヴルでプロのキャリアを始めた守備的MF。2部で降格の危機に陥った2004-05シーズンの残留に貢献し、2005年夏にチェルシーへ移籍。のちにレアル・マドリードでもプレーした。[1][38]
14歳で加入した下部組織時代、U-16チームの主将として全国選手権の決勝ラウンドで2位に入った。2009年にマンチェスター・ユナイテッドへ移り、トップチームでの出場はない。2018年W杯優勝メンバー。[4][40]
2010年にPSGやマルセイユの誘いを断り、育成体制にひかれて加入。リザーブチームを経て2部でリーグ戦60試合6得点を記録し、2014年1月にレスターへ移籍。プレミアリーグ優勝を果たした。[4][39]
2009年から13シーズンにわたって中盤を支え、2016-17シーズンからは主将を務めた。公式戦470試合出場はクラブの最多記録。[1][9][43]
加入1年目の前半戦を終えた会見で、リーグ・アンは1対1の場面やスペースが多く、フィジカルの強度が高いレベルの高いリーグだと評価し、ここでプレーできるのはチャンスだと語った。本職ではないボランチ起用についても、笑いながら「僕のベストポジション」かもしれないと話した。[22]
— 瀬古歩夢
1年目のシーズン終盤、楽しく充実したシーズンで、1年間試合に出続けられたことは前向きに捉えていると振り返った。残留を早く決めきれなかったことには悔しさを見せ、ファンとクラブのために誰よりも勝ちたかったと語った。[21]
— 瀬古歩夢
初めての海外生活を「まだ許容範囲」と話しつつ、ピッチ内外で瀬古と、前橋育英高校の先輩でもある水多に助けられ、スタッフとの会話の通訳もしてもらっていると明かした。2人のおかげでストレスなく暮らせていることに感謝していると語った。[27]
— 中村草太
日本だと神奈川県鎌倉市(約17万人)とほぼ同じ規模
セーヌ川の河口、イギリス海峡に面した港町。1517年にフランス王フランソワ1世が港として築いた街で、パリからは約200キロ。現在のル・アーヴル港は取扱量でマルセイユに次ぐフランス第2の港で、コンテナ取扱量では国内最大を誇る。
第二次世界大戦末期の1944年、ノルマンディーの戦いで激しい爆撃を受け、約5,000人が亡くなり、1万2,000戸が全壊した。中心部は建築家オーギュスト・ペレのアトリエの計画で、1945年から1964年にかけてコンクリート造りの街として再建された。高さ107メートルのサン=ジョゼフ教会と市庁舎はペレ自身の設計。この戦後の街並み(133ヘクタール)は2005年にユネスコの世界遺産に登録された。
印象派ゆかりの街でもある。5歳からこの街で育ったクロード・モネは、1872年にこの港を描いた『印象・日の出』で「印象派」という名前の由来をつくった。アンドレ・マルロー美術館(MuMa)はパリのオルセー美術館に次ぐ規模の印象派コレクションを持つ。中心部にはブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤーが手がけた文化施設「ル・ヴォルカン(火山)」も建つ。
気候は海洋性で、風のない日は少ない。市街地の目の前には海水浴場が広がり、白い断崖で知られるエトルタまでは約30キロと、ノルマンディー観光の拠点にもなっている。
2012年7月12日に開場した、ノルマンディー地方最大のスタジアム。旧本拠地デシャゾーの向かい、かつての操車場(ソカンス地区)の跡地に建てられた。設計は建築事務所SCAU(リュック・ドラマンとマクシム・バルビエ)で、総工費は約8,000万ユーロ。外壁を覆う青い膜は、クラブカラーの空色と紺、そして海をイメージしている。2026年6月からは海運会社CMA CGMが命名権を持つ。
クラブによれば、消費する以上のエネルギーを生み出すフランス初の「ポジティブ・エネルギー」スタジアムで、2013年には国際的な「スタジアム・ビジネス・アワード」で最優秀新スタジアム賞を受けた。2019年の女子W杯では、フランス対ブラジル戦を含む7試合を開催。公式戦の最多観客数は2023年12月3日のPSG戦の24,569人で、2025-26シーズンの平均観客数は約1万9,000人(リーグ・アン12位)だった。
1971年から2012年までの本拠地は、すぐ向かいにあるスタッド・ジュール・デシャゾー(1931年開場、2012年時点の収容16,382人)。1938年W杯の試合会場にもなった。それ以前の1918年から1970年はスタッド・ド・ラ・カヴェ=ヴェルトが本拠地で、現在は育成センターの拠点になっている。
1984年に、1917年からクラブの本拠地だったカヴェ=ヴェルトの敷地に開設された育成センター。プロになれなかった若者にも将来の選択肢を残せるよう、地元の中学・高校と提携して学業との両立を重視している。2023年6月には、ここで育ち、2008年に主将として2部優勝を果たした元GKクリストフ・ルヴォー(2021年死去)の名が冠された。
クラブはここで育った選手を「メイド・イン・カヴェ」と呼ぶ。プロになった選手は約160人、A代表選手は約50人(うちフランス代表16人)にのぼる。フランスサッカー連盟による育成センターの評価では2022年に全国2位、2024-25シーズンは6位。2026年11月からは、センター長のジャイール・カラムがトップチームの暫定監督を務めている。
主な出身選手: スティーヴ・マンダンダ、ポール・ポグバ、リヤド・マレズ、ラサナ・ディアラ、フェルラン・メンディ、バンジャマン・メンディ、エドゥアール・メンディ、パペ・ゲイェ、ロイク・バデ
ホームゲームを盛り上げるのは、1984年創設の「コップ・シエル・エ・マリーヌ」、最大のウルトラス・グループ「バーバリアンズ・アーヴレ」(1993年創設)、2016年に生まれた「コップ・オセアン」などのグループ。1991年創設のサポーター連盟は2009年からクラブの株主にもなっている。選手入場の曲はAC/DCの「サンダーストラック」が定番だ。
サポーターは献身的な選手を愛する。2025-26シーズンには、加入1年目の瀬古歩夢がファン・サポーターの投票でクラブのシーズンMVPに選ばれた。
日本からはまずパリへ。パリ・サン=ラザール駅からル・アーヴル駅までは列車で約2時間20分で、1日およそ16本が走っている。イギリスのポーツマスからはフェリーも出ている。
試合日には、地元交通LiAなどが市内外の6か所からスタジアムへの無料シャトルバスを運行し、そのうち1か所は市中心部のバスターミナル(Gare routière)から出る。帰りは試合終了から最大1時間運行する。路線バス12・17・20・21番の「Stade Océane」停留所でも降りられる。
チケットはクラブ公式のオンライン販売か、スタジアム内の公式ショップ「HAC Shop」で購入する。それ以外のルートでの転売は違法で、偽チケットのおそれもあるとクラブは注意を呼びかけている。リーグ・アンの試合日時は放送局の都合で、通常1か月から3週間前に確定するので、旅程は余裕をもって組みたい。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。