Olympique lyonnais
フランス第3の都市であり「美食の都」として知られるリヨンを本拠とするクラブ。2001-02シーズンからリーグ・アンを7連覇し、ベンゼマやラカゼットを育てたアカデミーでも名高い。2026年9月に加入した中村敬斗は、男子トップチームでプレーするクラブ史上初の日本人選手になった。
📅 クラブ紹介(歴史・街・スタジアムなど)は2026年11月5日時点の情報です(出典31件)。試合・順位・今季成績は毎日自動で更新しています。
2026-27シーズンのリーグ・アンで3位(18チーム中・勝ち点17)順位表 →
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
ルーツは1899年、総合スポーツクラブ「リヨン・オランピック・ユニヴェルシテール」の中に生まれたサッカー部門。アマチュアとプロの共存をめぐる対立から独立を目指したグループが、1950年5月23日に市中心部ベルクール広場のカフェに集まり、新クラブ「オランピック・リヨネ」と赤・青のクラブカラーを決めた。同年8月に初の公式戦を戦い、2年目の1950-51シーズンに2部優勝で1部へ昇格。1960〜70年代はフルーリー・ディ・ナロやセルジュ・キエザらを擁し、クープ・ドゥ・フランスを1964・1967・1973年の3度制した。
1980年代に2部へ落ちていたクラブを1987年6月に買い取ったのが、地元の実業家ジャン=ミシェル・オラスだった。欧州で戦えるクラブを目指す計画を掲げ、レイモン・ドメネク監督のもと1988-89シーズンに2部優勝で1部復帰。1994-95シーズンにはジャン・ティガナ監督のもと2位に入り、2001年にはクープ・ドゥ・ラ・リーグで初優勝した。オラスは2023年まで36年間にわたって会長を務めた。
2001-02シーズンにクラブ史上初のリーグ優勝を果たすと、そこから2007-08シーズンまでフランス記録となる7連覇を達成。ジュニーニョ・ペルナンブカーノ、グレゴリー・クペ、シドニー・ゴヴらが全7回の優勝を経験し、2008年にはクープ・ドゥ・フランスとの2冠も達成した。チャンピオンズリーグでは常連となり、2009-10シーズンにはクラブ史上初の準決勝に進出。2008年6月には、リヨンの姉妹都市・横浜を本拠とする横浜F・マリノスと育成面での業務提携を結んだ。
2016年1月、郊外デシーヌ=シャルピューの新スタジアムへ移転。2016-17シーズンにはヨーロッパリーグ準決勝、2019-20シーズンにはチャンピオンズリーグでユヴェントスとマンチェスター・シティを破って10年ぶりの準決勝に進出した(バイエルンに0-3で敗退)。2022年12月に米国の実業家ジョン・テクスターが筆頭株主となり、翌2023年5月にオラスが会長職を退いた。2023-24シーズンは開幕から低迷したが、アカデミーの指導者から暫定監督に就いたピエール・サージュのもとで6位まで巻き返し、クープ・ドゥ・フランス決勝にも進んだ。
その後は財政難が表面化し、2025年6月24日にはフランスの財務監査機関DNCGがリーグ・ドゥへの降格処分を決定。テクスターが退き、女子チームのオーナーでもあるミシェル・カンが会長に就任した。同年7月9日の不服審査で処分は撤回され、主力の売却を進めながら2025-26シーズンは4位に入った。2026年6月にはカンがクラブの株式の過半数を取得。2026-27シーズンはチャンピオンズリーグ予選でフェネルバフチェに敗れてヨーロッパリーグに回り、9月に中村敬斗が加入した。11月初めにはパウロ・フォンセカ監督がスポルティングCP(ポルトガル)へ移ることになった。なお女子チーム(現OLリヨネス)では、熊谷紗希が2013年から2021年まで在籍し、欧州女子チャンピオンズリーグ制覇を重ねた。
エンブレム最初のエンブレムは1950年の創設時に作られ、リヨン市の紋章(赤地に銀の獅子、上部の青地に金のユリ3輪)をもとに、ユリの代わりに「OL」の文字を入れたものだった。赤と青のクラブカラーも市の色に由来する。オラス会長時代の1989年に「OL」の文字を前面に出したデザインへ変わり、1996年には上部の赤い帯にクラブ名、下部の青地に「OL」の文字を置き、Oの中に金色の獅子を収めた盾形が誕生。2006年と2022年に細部が改められ、現在もこの盾形の系譜が続いている。
愛称: レ・ゴーン(Les Gones/リヨンの方言で「子どもたち」) / OL
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | リーグ・アン | 8 | ヨーロッパリーグは準々決勝でウェストハムに敗退。クープ・ドゥ・フランスはパリFC戦でのサポーターの騒動により大会から除外された[2][6] |
| 2022-23 | リーグ・アン | 7 | 欧州カップ戦の出場なし。クープ・ドゥ・フランスは準決勝でナントに0-1で敗退。シーズン途中でボス監督からローラン・ブラン監督へ交代[2][7] |
| 2023-24 | リーグ・アン | 6 | 開幕から降格圏に沈んだが、サージュ監督の就任後に巻き返してEL出場権を獲得。クープ・ドゥ・フランスはパリ・サンジェルマンに敗れ準優勝[1][8] |
| 2024-25 | リーグ・アン | 6 | ヨーロッパリーグ準々決勝でマンチェスター・ユナイテッドに2試合合計6-7(延長)で敗退。1月にサージュ監督からフォンセカ監督へ交代[1][9] |
| 2025-26 | リーグ・アン | 4 | 降格処分の撤回を経て迎えたシーズン。ヨーロッパリーグはラウンド16でセルタに合計1-3で敗退、クープ・ドゥ・フランスは準々決勝でランスにPK戦で敗退[2][10] |
リヨン生まれのストライカー。14年間で公式戦222得点を挙げたクラブ史上最多得点者で、出場489試合も歴代3位。2026年5月に死去した。[1][23]
14シーズンで公式戦541試合に出場したクラブ最多出場記録の保持者。1970年代のチームを中盤から支えた。[1][24]
リーグ7連覇のすべてに貢献した守護神。公式戦518試合は歴代2位で、2003年から4年連続でリーグ最優秀GKに選ばれた。[1][25]
史上屈指のフリーキックの名手として知られ、公式戦343試合で100得点。7連覇すべてを経験し、2006年にリーグ年間最優秀選手に選ばれた。のちにスポーツディレクターも務めた。[1][26]
在籍2年で2度のリーグ優勝を経験し、2005年にリーグ年間最優秀選手に選出。同年チェルシーへ移籍し、世界的なMFへと飛躍した。[1][29]
リヨン生まれでアカデミー育ち。2007-08シーズンに得点王とリーグ年間最優秀選手を獲得し、2009年に当時のフランス史上最高額でレアル・マドリードへ移籍した。[1][27]
リヨン生まれのアカデミー出身FW。2014-15シーズンに得点王と年間最優秀選手に輝き、新スタジアムの初ゴールも記録。アーセナルを経て復帰し、クラブ歴代2位の得点者になった。[1][4][28]
在任3シーズンすべてでリーグ優勝を果たし、7連覇の中盤を築いた。クラブ史上最も多くリーグタイトルを獲った監督。[2][30]
日本だと宇都宮市(人口50万人超)くらいの規模。周辺58市町村と構成する「リヨン・メトロポール」は約144万人(2023年)
フランス南東部、ローヌ川とソーヌ川が合流する地点に広がる街。パリの南東約390km、スイスのジュネーヴからは約110kmに位置する。市単独ではフランス第3の都市だが、郊外を含む都市圏の人口は約234万人とパリに次ぐ規模を持つ。
古代ローマ時代にはガリアの首都として栄えた歴史を持ち、フルヴィエールの丘、ルネサンス期の街並みが残る旧市街(ヴュー・リヨン)、2つの川に挟まれたプレスキル、クロワ=ルスの丘の斜面一帯が1998年にユネスコの世界遺産に登録された。建物の中を抜けて通りと通りを結ぶ「トラブール」と呼ばれる小径が旧市街の名物だ。
料理評論家に「世界の美食の都」と称えられた街で、ポール・ボキューズに代表される名シェフを輩出してきた。「ブション」と呼ばれる伝統的な食堂では、クネルやリヨン風サラダといった郷土料理が味わえる。毎年12月8日から4日間ほど開かれる「光の祭典(フェット・デ・ルミエール)」では、街の歴史的建造物が光の演出で彩られる。
日本とのつながりも深い。かつて絹織物の一大産地だったリヨンからは、19世紀に蚕の病気が欧州に広がった際、多くの商人が生糸を求めて横浜を訪れた。富岡製糸場の建設を指導したポール・ブリュナもリヨン近郊の出身だ。1959年には横浜市と姉妹都市になっている。
リヨン中心部から東へ離れた郊外のデシーヌ=シャルピューに建つスタジアム。2008年にオラス会長が構想を発表したが、地元の反対運動や行政手続きで計画は遅れ、2013年に着工。米国の設計事務所ポピュラスが手がけ、2016年1月9日のトロワ戦(4-1で勝利)でこけら落としを迎えた。この試合でラカゼットが新スタジアムの初ゴールを決めている。
収容59,186人はフランスで3番目の規模。正式名称はパルク・オランピック・リヨネで、2017年から保険会社グルパマが命名権を持ち、2025年7月に2030年までの延長が発表された。EURO2016の6試合、2018年のヨーロッパリーグ決勝、2019年女子W杯の準決勝と決勝、2024年パリ五輪のサッカー競技などの舞台にもなった。リーグ戦の最多観客は2025年11月9日のパリ・サンジェルマン戦の58,257人。
1950年から2015年まで本拠地だったスタッド・ド・ジェルラン。建築家トニー・ガルニエの設計で1926年に開場し、1967年に歴史的記念物に指定された。1998年W杯の会場にもなり、現在はラグビーのリヨンOUが使っている。
フランス屈指の育成組織として知られ、2013年から2018年まで6年連続でLFP(フランス・プロリーグ機構)の育成組織ランキング1位に選ばれた。2014年2月には、欧州5大リーグでプレーする育成出身選手の数でバルセロナに次ぎ、レアル・マドリードと並ぶ2位に入ったと報じられている。試合の結果よりも技術の習得を重んじ、特定のシステムにこだわらずに育てる方針が特徴とされる。
かつてはジェルラン地区の「トラ・ヴォロジュ・センター」がトップチームの練習場と育成拠点を兼ねていたが、新スタジアムへの移転に合わせてトップチームはスタジアム隣の練習施設へ、アカデミーは隣町メジューの新拠点へ移った。2026年1月からはクリスティアン・バシラがアカデミーの責任者を務めている。
主な出身選手: カリム・ベンゼマ、アレクサンドル・ラカゼット、ハテム・ベン・アルファ、サミュエル・ウムティティ、コランタン・トリッソ、アントニー・マルシャル、ラヤン・シェルキ、ブラッドリー・バルコラ
代表的なサポーター団体は、オラス会長がクラブを買い取った1987年に結成された「バッド・ゴーン(Bad Gones)」。ジェルラン時代から北側のゴール裏(ヴィラージュ・ノール)に陣取り、現スタジアムでも北側スタンドを本拠にしている。南側のゴール裏には2009年に生まれた「リヨン1950」などが集まる。
観客動員は2000年代の黄金期に大きく伸び、ジェルラン時代は1980年代末までの平均約1万人から、2000年代には収容人数いっぱいに近い4万人弱へ増えた。新スタジアム移転後は6万人近い観衆が入る試合もある。一方で、2021年12月のクープ・ドゥ・フランスでのパリFC戦が観客の騒動で打ち切られるなど、一部サポーターの暴力行為がたびたび問題になってきた。
リヨンの空の玄関口は市の東にあるリヨン・サン=テグジュペリ空港。空港内にTGVの駅があり、市中心部のパール・デュー駅とは空港アクセス路面電車「ローヌエクスプレス」で結ばれている。パリからはTGVで最短1時間50分ほどで、日本から向かう場合はパリ経由も選びやすい。
スタジアムは市中心部から東の郊外にある。試合日には、パール・デュー・ヴィレット、ヴォー=アン=ヴラン・ラ・ソワ、メジュー・レ・パネットなどからスタジアム行きの臨時路面電車・バスが運行されるが、乗車には試合チケットと一緒にクラブの公式窓口で買う専用の乗車券が必要になる。試合日以外は、路面電車T3の「Décines Grand Large」から歩いて15分ほど、またはT7・バス85番で「Décines OL Vallée」へ向かう。
チケットはクラブ公式サイトのチケットページで販売される。輸送体制や販売方法は試合ごとに変わることがあるため、最新情報は公式サイトで確認したい。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。