Real Valladolid Club de Fútbol, S.A.D.
旧市街のマヨール広場と市庁舎。広場の中央には街を築いた伯爵ペドロ・アンスレスの像が立つ
2021-22シーズンの1部昇格を祝うソリーリャでの催し。ピッチ上の選手たちをスタンドのサポーターが囲む(2022年5月)
街の中心を流れるピスエルガ川と遊覧船。2007年の1部昇格の際には、選手たちが遊覧船「レジェンダ・デル・ピスエルガ」で川を巡って祝った
写真: xavi lópez(2011年)・CC BY-SA 3.0 es・Commons / Goldorak(2022年)・CC BY-SA 4.0・Commons / oSiNaReF(2008年)・CC BY-SA 2.0・Commons(いずれもトリミング加工)
スペイン北部の内陸、カスティーリャ・イ・レオン州の中心都市バリャドリードを本拠とする、紫と白の縦縞のクラブ。1928年に創設され、同州のクラブとして初めて1部リーグに昇格した。2000年には城彰二がラ・リーガ初の日本人選手としてここでプレーし、2026年9月には伊藤涼太郎が2人目の日本人選手として加わった。
📅 クラブ紹介(歴史・街・スタジアムなど)は2026年11月5日時点の情報です(出典33件)。試合・順位・今季成績は毎日自動で更新しています。
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
1928年6月20日、街の2つのクラブ「レアル・ウニオン・デポルティーバ」と「クルブ・デポルティーボ・エスパニョール」が合併して誕生した。初代会長はペドロ・スロアガ。同年9月22日、闘牛場の隣にあったグラウンドでの最初の試合でアラベスを2-1で破っている。ユニフォームは、合併した両クラブの色(青と赤)を避けて紫と白の縦縞に決まり、創設以来ほとんど変わっていない。1947-48シーズンに2部で優勝し、カスティーリャ・イ・レオン州のクラブとして初めて1部へ昇格。1950年には国王杯(当時の名称はコパ・デル・ヘネラリシモ)の決勝に進み、アスレティック・ビルバオに延長戦の末1-4で敗れた。1962-63シーズンの1部4位は現在もクラブ最高順位となっている。
1980年に16年ぶりの1部復帰を果たすと、1982年のスペインW杯に向けて市が新スタジアム(現在のホセ・ソリーリャ)を建設した。1983-84シーズンには、1980年代前半だけ行われたリーグ杯「コパ・デ・ラ・リーガ」の決勝でアトレティコ・マドリードと対戦。アウェーの第1戦を0-0で終え、1984年6月30日の本拠地での第2戦を延長戦の末3-0で制して、クラブ史上唯一の全国タイトルを手にした。この優勝で初めて欧州の舞台(1984-85シーズンのUEFAカップ)に立った。1989年には2度目の国王杯決勝でレアル・マドリードに0-1で敗れたものの、翌シーズンのカップウィナーズカップでは準々決勝まで進み、モナコにPK戦で敗れた。
1990年代初めにはコロンビア人のフランシスコ・マトゥラナ監督のもと、カルロス・バルデラマやレネ・イギータといったコロンビア代表のスター選手が在籍したが、成績は振るわず1992年に2部へ降格し、多額の負債を抱えて経営危機にも陥った。同年、法律に従ってスポーツ株式会社(S.A.D.)に移行。1993年に1部へ戻り、ビセンテ・カンタトーレ監督のもとで1996-97シーズンに7位に入ってUEFAカップの出場権を獲得、「ユーロプセラ」と呼ばれて街が沸いた。2000年1月には横浜F・マリノスから城彰二を期限付き移籍で獲得し、ラ・リーガで初めて日本人選手を擁したクラブになった。
2001年から2018年まではカルロス・スアレス会長のもとで1部と2部を行き来した。ホセ・ルイス・メンディリバル監督が率いた2006-07シーズンは、2部の勝ち点記録を塗り替える独走で優勝。2008年1月20日にはジョセバ・ジョレンテがエスパニョール戦の開始直後に決めたゴールが、リーグ史上最速得点として記録された。2018年夏、プレーオフを勝ち抜いて1部へ復帰した。
2018年9月3日、元ブラジル代表FWのロナウドがスアレス会長から株式の51%を取得して筆頭株主となり、取締役会の議長に就いた。2019-20シーズンには1部で13位と、18シーズンぶりの好成績を残したが、その後は2021年降格・2022年昇格・2023年降格・2024年昇格・2025年降格と1部と2部を毎年行き来した。補強方針などをめぐって一部のサポーターとの関係は悪化し、2022年に刷新したエンブレムも、2023年12月の年間シート会員の投票で以前のデザインに戻すことが決まった。2025年5月にロナウドの持ち株売却が発表され、同年6月、メキシコ人実業家ガブリエル・ソラレスが率いる投資グループ「イグナイト」と「ベン・オールドマン」が新たな筆頭株主となった。2部で迎えた2025-26シーズンは4人の監督が指揮を執り17位。2026-27シーズンはフラン・エスクリバ監督のもとで1部復帰を目指している。
エンブレムエンブレムは、街の紋章によく似たデザイン。上部の王冠は「レアル(王立)」の称号を表し、中央には1561年の大火にちなむバリャドリード市章の5つの炎、その周りにカスティーリャを表す5つの城、下半分にはクラブカラーの白と紫の縞と「RV」の頭文字を配している。第二共和政から内戦の時期(1931年〜)にはクラブ名から「レアル」が外れて王冠も消えた。2022年6月の創設94周年に、炎や王冠を単純化した新デザインへ変更されたが、サポーターからは「クラブらしくない」と反発が強く、2023年12月の年間シート会員による投票では、登録会員の59%にあたる1万1,875人が旧デザインへの回帰に票を投じた。2024年7月から1998年版のエンブレムに戻っている。
愛称: プセラ(Pucela、本拠地バリャドリードの愛称) / ブランキビオレタ(Blanquivioletas、「白と紫」)
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | セグンダ・ディビシオン(2部) | 2 | 勝ち点81で最終節に自動昇格を決め、1シーズンで1部へ復帰。国王杯はベスト32で敗退[6][9] |
| 2022-23 | ラ・リーガ | 18 | 最終節のヘタフェ戦を0-0で終えて2部降格。シーズン途中にパチェタ監督からパウロ・ペソラーノ監督へ交代。国王杯はベスト32[6][10] |
| 2023-24 | セグンダ・ディビシオン(2部) | 2 | 勝ち点72の2位で再び1部へ自動昇格[6][11] |
| 2024-25 | ラ・リーガ | 20 | 38試合で勝ち点16の最下位に終わり降格。監督はペソラーノ、ディエゴ・コッカ、アルバロ・ルビオと3人が務めた[6][12] |
| 2025-26 | セグンダ・ディビシオン(2部) | 17 | 新オーナーのもとで迎えたシーズン。勝ち点46で降格圏とは6点差。監督はアルマダ、シシ(暫定)、テベネト、フラン・エスクリバの4人[6][13] |
バリャドリード生まれのインサイドフォワード。3部から1部への2年連続昇格を支えた1950年前後の中心選手で、1950年の国王杯決勝で得点し、1952年にはクラブ初のスペイン代表選手となった。[2][14]
下部組織出身のアタッカー。通算94得点はクラブ歴代最多で、クラブ最高順位となった1962-63シーズンの1部4位にも貢献した後、レアル・マドリードへ移籍した。[2][15]
1980年の1部復帰とともに加入した守護神。外国籍選手としてクラブ最多の252試合に出場し、1984年のコパ・デ・ラ・リーガ優勝のゴールを守った。[4][16]
「ポリージャ(蛾)」の愛称で親しまれたストライカー。1983-84シーズンにラ・リーガ得点王(ピチーチ賞)に輝き、同シーズンのコパ・デ・ラ・リーガ優勝にも貢献した。[2][4][17]
セカンドチームを経て1987年にトップチームでデビュー。1989年の国王杯決勝に出場した後にレアル・マドリードへ移籍し、スペイン代表でも89試合に出場した。[2][4][18]
クラブ最多タイの7シーズンを指揮した名将。1989年に国王杯決勝へ導き、1996-97シーズンには7位でUEFAカップ出場権を獲得して「ユーロプセラ」の時代を築いた。[2][19]
レアル・マドリードの下部組織出身の左サイドバック。15シーズンにわたって守備を支えて主将も務め、公式戦471試合出場はクラブ歴代最多。[2][20]
就任1年目の2006-07シーズンに2部の勝ち点記録を更新して優勝し、1部へ導いた。後にセビージャで2023年のヨーロッパリーグを制している。[1][21][33]
日本だと久留米市(2025年国勢調査で約29.7万人)くらいの規模
マドリードの北西、標高約735メートルの内陸の高原(メセタ)に広がる街で、市内をピスエルガ川が流れる。カスティーリャ・イ・レオン州の州政府が置かれる事実上の州都で、1950年代以降は自動車工場が集まる工業都市としても発展した。街は「プセラ」の愛称でも呼ばれ、住民はプセラーノと呼ばれる。愛称の由来ははっきりせず、ジャンヌ・ダルク(ラ・ピュセル)に仕えた騎士にちなむという説などがある。
スペイン史の舞台になった街でもある。1469年にはカトリック両王(イサベル1世とフェルナンド2世)がここで結婚し、1506年にはコロンブスがこの街で亡くなった。1601年から1606年まではスペイン王国の首都が置かれ、『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスや、スタジアムの名前の由来となった詩人ホセ・ソリーリャの家も残っている。
カトリックの伝統を色濃く残す聖週間(セマナ・サンタ)の行列は広く知られ、秋には国際映画祭「セミンシ」が開かれる。2019年にはユネスコ創造都市ネットワークの映画都市に選ばれた。名物料理は薪窯でじっくり焼く乳飲み仔羊のロースト「レチャソ」。周辺はリベラ・デル・ドゥエロ(赤)やルエダ(白)など、スペインを代表するワイン産地でもある。
市が所有する市営スタジアムで、1982年のスペインW杯に向けて建設された。同大会のために新しく建てられたスペインで唯一のスタジアムで、グループリーグのフランス、チェコスロバキア、クウェートの3試合が行われた。クラブの試合としては1982年2月20日のアスレティック・ビルバオ戦(1-0)で開場し、同年4月にはレアル・マドリード対スポルティング・ヒホンの国王杯決勝も開催。厳しい冷え込みのなかで行われたこの試合から「肺炎スタジアム」とあだ名されたこともある。
1995年に全席が個席化され、2019年にはピッチとスタンドの間の堀を取り払ってピッチを下げる改修で、収容人数は現在の27,618人になった。2024年夏には外壁が紫を基調にした新しい装飾に塗り替えられ、クラブの創設年「1928」が大きく描かれている。名前は、19世紀にこの街で生まれた詩人・劇作家ホセ・ソリーリャにちなむ。
1940年から1982年まで本拠地だった旧ソリーリャ(パセオ・デ・ソリーリャ沿い)。1940年11月3日に開場し、1984年に取り壊された。跡地は公園とデパートになっている。創設から1940年までは闘牛場の隣のグラウンドを使っていた。
セカンドチームの歴史は1944年、地元クラブ「レクレアティーボ・エウロパ・デリシアス」が下部組織になったところから始まる。1973年に「レアル・バリャドリード・プロメサス」と改称し、現在はスペイン4部にあたるセグンダ・フェデラシオンに所属。スタジアムに隣接する練習場「アネクソス」で試合を行っている。
1970年代、財政難の時期には下部組織の若手を積極的に起用してチームを立て直し、プロメサスからはフリオ・カルデニョサらがトップチームへ巣立った。近年はプロメサスで台頭したガーナ人DFモハメド・サリスが2020年にサウサンプトンへ移籍し、当時のクラブ最高額の移籍金を残している。ユース(フベニール)のトップチームは全国最上位リーグのディビシオン・デ・オノールに所属し、2005-06シーズンには全国王者決定戦の決勝に進んだ。
主な出身選手: ルイス・ミンゲラ、フリオ・カルデニョサ、セルヒオ・アセンホ、モハメド・サリス
サポーターは街の愛称から「プセラーノ」と呼ばれる。年間シートの会員数は年々増え、2024-25シーズンには過去最多の2万4,000人に達し、キャンセル待ちが出るほどになった。ゴール裏の応援エリア「フォンド・ノルテ1928」には複数のペーニャ(サポーター団体)が陣取り、サポーター連盟には40を超えるペーニャが登録されている。
昇格のたびに街が祝福に包まれるのも特徴で、2007年の1部昇格の際には選手たちがピスエルガ川の遊覧船「レジェンダ・デル・ピスエルガ」で川を巡り、マヨール広場の市庁舎のバルコニーからファンに応えた。
日本からはマドリードのバラハス空港を経由するのが便利。マドリードのチャマルティン駅からバリャドリードのカンポ・グランデ駅まで高速列車(AVE・アルビア)がほぼ1時間おきに走り、所要時間は1時間強。バラハス空港からは近郊線でチャマルティン駅に出て乗り継ぎ、約1時間45分で着く。市の北西約15キロにバリャドリード空港もあるが、国内線が中心で便数は少ない。
スタジアムは市の中心部から離れた場所にあり、住所はアベニーダ・デル・ムンディアル82。試合日には市内の各地区からスタジアムへ向かう臨時バス(F1〜F6系統)が運行される。
チケットはクラブ公式サイトからリンクされているオンライン販売サイト(entradas.realvalladolid.es)で購入できる。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。