Sparta Rotterdam
港町ロッテルダムの西部、スパンゲン地区を本拠とする、1888年創設のオランダ最古のプロクラブ。サンダーランド譲りの赤白の縦縞と、2本の塔を持つ「城」の外観で知られる1916年以来の本拠地ヘット・カスティールが象徴だ。2022年から2年間プレーした斉藤光毅はクラブから「観客の人気者」と紹介されるほど愛され、2024年からは三戸舜介が赤白のユニフォームを着ている。
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2026-27シーズンのエールディヴィジで11位(18チーム中・勝ち点12)順位表 →
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
1888年4月1日(復活祭の日曜日)、ロッテルダムの13〜16歳の学生8人が、会計係の家の庭で「ロッテルダム・クリケット&フットボールクラブ・スパルタ」を結成した。最初はクリケットのクラブだったが、同年7月からサッカーも始め、1892年にクリケット部門を解散。1893年には当時の最上位リーグへ昇格し、同じ年にオランダのクラブとして初めて外国チーム(イングランドのハーウィッチ&パークストン)と対戦した。オランダにクロスバーとネットのあるゴールやヘディングを持ち込んだのもスパルタだとされ、1899年にはイングランドのサンダーランドを視察した役員たちがその赤白の縦縞を採用。最初のユニフォームはサンダーランドの中古品だった。
1905年にはクラブの主導でオランダ代表の国内初の公式戦(対ベルギー、4-0)を開催するなど、草創期のオランダサッカー界をけん引した。成績面では長く「永遠の2位」と呼ばれたが、イングランド人コーチのエドガー・チャドウィックを迎え、代表の主将も務めたボク・デ・コルヴァーらを擁して、1909・1911・1912・1913・1915年と5度の全国王者に輝いた。1916年10月には、クラブが「オランダ初のクラブスタジアム」とするヘット・カスティールへ移転。周りに住宅地が造られ、スタジアムは街の中心になった。
第2の黄金期は1950年代。イングランド人監督デニス・ネヴィルのもとで、1956年に発足したエールディヴィジに参加し、1958年にKNVBカップ初優勝、1959年には44年ぶりの国内王者となった。続く1959-60シーズンのヨーロッパカップでは準々決勝に進み、スコットランド王者レンジャーズの本拠地アイブロックスで8万3,000人の観衆の前で勝利。再試合で敗れたものの、オランダのクラブとして当時最も勝ち進んだ。1962・1966年にもKNVBカップを制している。
その後は中位が定位置となり、1996年にはKNVBカップ決勝に進んだが敗れ、その後は降格圏に沈むようになった。2001-02シーズンにはフランク・ライカールト監督のもとで、創設以来初めて2部(エールステ・ディヴィジ)へ降格。2003年には破産の危機に陥ったが、地元の実業家らの支援で乗り切った。2005年に昇格、2010年に再降格、2016年に2部優勝で復帰、2018年に名将ディック・アドフォカートを迎えながら3度目の降格と、浮き沈みの激しい時期が続き、2019年にプレーオフを勝ち抜いて1部へ戻った。
2021-22シーズンには残り4試合で降格圏にいたが、後任のマウリス・ステイン監督が最後の4試合で勝ち点10を積み上げて残留。翌2022-23シーズンは斉藤光毅らの活躍で6位に入り、ヨーロッパ大会出場を懸けたプレーオフで決勝まで進んだ。2024年冬には三戸舜介が加入。ステインはアヤックスへ去った後に復帰し、2026年1月には敵地デ・カイプでフェイエノールトを4-3で破り、2000年以来となるダービーでの敵地勝利を挙げた。
エンブレムクラブカラーは赤と白。1899年にイングランドのサンダーランドの試合を視察した役員たちがその配色に惚れ込み、赤白の縦縞シャツに黒のパンツという組み合わせを採用した。現在も赤白の縦縞シャツ、黒のパンツ、赤白の輪の模様のストッキングが伝統の装いで、クラブによれば赤白の輪模様のストッキングは1930年に導入されたもの。1906-07シーズンには、ボールを蹴るスパルタ兵をあしらったロゴを使い始めている。
愛称: 城の主たち(De Kasteelheren) / 赤白の剣闘士(De Rood-Witte Gladiatoren)
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | エールディヴィジ | 14 | 残り4試合で降格圏にいたが、ステイン監督が就任して勝ち点10を積み上げ自力で残留[2][4][10] |
| 2022-23 | エールディヴィジ | 6 | 斉藤光毅の加入1年目。ヨーロッパ大会出場を懸けたプレーオフで決勝まで進んだが出場権は逃した[1][4][9] |
| 2023-24 | エールディヴィジ | 8 | ライスダイク監督の1年目で2年連続のプレーオフ進出。1月に三戸舜介が加入し、斉藤光毅との日本人コンビが両翼を担った[1][4][8][16] |
| 2024-25 | エールディヴィジ | 12 | シーズン途中にライスダイク監督が解任され、ステイン監督が復帰。後半戦の巻き返しで中位を確保[1][2][4][7] |
| 2025-26 | エールディヴィジ | 10 | 1月に敵地でフェイエノールトに4-3で勝利(三戸舜介も得点)。プレーオフ進出はわずかに逃した[4][6][21] |
キャリアのすべてをスパルタで過ごし、5度の国内制覇に貢献。オランダ代表として31試合に出場し、1908・1912年の五輪で銅メダル(1912年は主将)。2008年にクラブが選んだ歴代ベスト60人で1位に選ばれ、スタンドにも名が付いている。[34][35]
リーグ戦455試合に出場したアタッカー。1959年の国内制覇、1958・1962年のKNVBカップ優勝を経験した。歴代ベスト60人でデ・コルヴァーに次ぐ2位に選ばれ、メインスタンドに名が付けられている。[35]
8年間指揮を執り、1959年の国内制覇と2度のKNVBカップ優勝を達成。ヨーロッパカップではアイブロックスでレンジャーズを破った。ゴール裏のスタンドに名が残る。[24][36]
U-19からすぐに正GKの座をつかみ、リーグ戦101試合に出場。のちにPSVへ移り、オランダ代表で32試合に出場した名GK。[37]
選手として8シーズン在籍し、リーグ戦249試合に出場。のちに監督としてアヤックスでチャンピオンズリーグを制し、バルセロナ、バイエルン、マンチェスター・ユナイテッド、オランダ代表を率いた。[3][38]
スパルタでプロデビューし、リーグ戦165試合に出場したのちアヤックスへ。オランダ代表でも活躍し、引退後は代表監督も務めた。[1][39]
スパルタのアカデミー出身。トップチームで72試合に出場し、PSV、ローマなどで活躍。オランダ代表で46試合に出場した。[33][40]
レンタル延長が決まった際、クラブでの日々をとても楽しんでいると話し、サポーターとの良い関係や、ここで成長できている実感を挙げて、もう1シーズンこのスタジアムでプレーするのを楽しみにしていると語った。[12]
— 斉藤光毅
1年目のシーズン終盤、スタッフも選手もサポーターもみんなが良くしてくれる「すごくいい環境」だと語り、来季活躍してステップアップすることがクラブへの恩返しになると話した。[17]
— 斉藤光毅
2年目の開幕直後、街と人の雰囲気が気に入っていると話し、慣れた環境でもう1年プレーできることは自分にとって良いと喜んだ。[18]
— 斉藤光毅
加入2年目の地元紙のインタビューで、ロッテルダムでの生活に慣れ、チームメイトとも話せるようになったと明かした。パリ五輪の後に斉藤光毅のいないチームに戻ったときは寂しさが増したが、訪ねてくれる友人や遠くの家族の支えが大きいと語った。[19][20]
— 三戸舜介
日本だと千葉県船橋市(約65万人)くらいの規模
オランダ南西部、ライン川とマース川の河口に開けたヨーロッパ最大の港町。川や運河、鉄道で欧州内陸と結ばれ、「ヨーロッパの玄関口」と呼ばれてきた。エラスムス大学を抱える大学都市でもある。
1940年5月14日のドイツ軍の爆撃で中心部がほぼ壊滅し、戦後にゼロから再建された。そのため古い街並みの多い他のオランダの都市とは対照的に、エラスムス橋、傾いた立方体が並ぶキューブハウス、巨大なアーチ型の屋内市場マルクトハルなど、斬新な現代建築が並ぶ街になった。
スタジアムのあるスパンゲン地区は市の西部、デルフスハーフェン区にある人口約9,500人の住宅地。1920年代に労働者向けの住宅地として計画され、建築家ミヒール・ブリンクマンの集合住宅など、建築の世界では名高い作品が残る。1980〜90年代には荒廃が社会問題になったが、2000年代に再生が進んだ。サポーターは「シック」なスパルタに対し、南部のフェイエノールトを「庶民のクラブ」と見てきた。
1916年10月15日、ヴィレムII戦でこけら落としを迎えた、オランダ最古のサッカースタジアム。2本の塔を持つ正面の建物がお城のようだったことから「ヘット・カスティール(城)」と呼ばれ、かつてこの干拓地にあった城の記憶を込めたデザインとも伝わる。1928年のアムステルダム五輪ではサッカーの試合会場にもなった。
1998〜99年の大改修でほぼ全面的に建て替えられ、ピッチの向きも90度回転。そのとき唯一残されたのが1916年の「城」の建物で、現在はロングサイドのカスティール・スタンドと一体になり、クラブ博物館が入っている。改修後の再開場はスコットランドのレンジャーズとの記念試合だった。スタンドにはファン・エーデ、ネヴィル、デ・コルヴァーとクラブの英雄の名が付けられている。
1970年のフェイエノールト戦では、相手GKのゴールキックが上空のカモメに当たって落とすという珍事が起きた。このカモメのはく製はフェイエノールトの本拠地デ・カイプの博物館に展示されている。
1916年までは市内を転々とし、1894年ごろから使ったクロースワイク地区のスフッテルスフェルトでは1905年にオランダ代表の国内初の公式戦が行われた。その後、近くのプリンセンラーンに移ってから現在地へ。
オランダ屈指と評価される育成組織で、国内最優秀アカデミーに何度も選ばれてきた(2009年にも受賞)。1963年にはハンス・ソンネフェルトのもとでスカウト網を整え、数多くの若手を見いだした。O9からO19までの全ユースチームは、改修を終えた練習拠点「ロベイ・アカデミー」で活動している。
かつては自治体の補助金を受けられなかったこともあり、育てた選手が次々に資金力のあるクラブへ引き抜かれた歴史もある。それでもダニー・ブリント、エド・デ・フーイ、ケヴィン・ストロートマン、デンゼル・ダンフリース、マルテン・デ・ローンら、オランダ代表クラスの選手を多く送り出している。
主な出身選手: ケヴィン・ストロートマン、デンゼル・ダンフリース、マルテン・デ・ローン、ジョルジニオ・ワイナルドゥム、メンフィス・デパイ、リック・ファン・ドロンゲレン
ロッテルダムには3つのプロクラブがあり、スパルタ、フェイエノールト、エクセルシオールの対戦はロッテルダム・ダービーと呼ばれる。サポーターの合言葉は「スパルタこそロッテルダムのクラブ」。1930年ごろに歌詞が固まったクラブ歌「スパルタ行進曲」は、最後にクラブ名を1文字ずつ叫ぶ締めくくりで知られる。
マスコットは「スパルタ・ピート」というカナリア。1920年代の新聞漫画に登場した鳥が起源で、1953年から35年間、熱狂的なサポーターが鳥かごを持って全試合に通い、全国的な有名人になった。現在は赤白のユニフォームを着た緑の鳥として、子ども向けのクラブを盛り上げている。NACブレダのサポーターとは友好関係にある。
日本からはアムステルダム・スキポール空港を経由するのが一般的。スキポール空港からロッテルダム中央駅までは特急インターシティ・ダイレクトで約25分(この区間は別途追加料金が必要)。アムステルダム中央駅からも約40分で、ベルギーのアントワープからは高速列車で約32分と、近隣国からの観戦も組みやすい。
スタジアムへは、路面電車8番とバス38番がスタジアムのすぐ横に停まる。路面電車3・4・11番も近くを通り、地下鉄のマルコーニプレイン駅からは歩いて約5分。
観戦には、クラブの会員証にあたる「スパルタ・クラブカード」(デジタル、有効期間5年)かシーズンチケットが必要。公式チケットサイト「spartakaartje.nl」でアカウントを作り、身分証の写真をアップロードして本人確認を済ませると購入できる(処理に最大24時間)。2026-27シーズンの大人の一般席は24.50〜38.50ユーロで、アヤックス・フェイエノールト・PSV戦などは追加料金がかかる。売り切れの試合は公式の「チケット・エクスチェンジ」でシーズンチケット保有者が手放した席を探せる。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。