Fußball-Club Bayern München e. V.
2012年10月、レヴァークーゼン戦の試合後も赤く照らされたアリアンツ・アレーナと、帰路につく観客
オリンピアベルク(オリンピック公園の丘)から見たオリンピアシュタディオン。1972年から2005年までの本拠地
旧市街の中心部。左が大聖堂フラウエン教会、右が新市庁舎
写真: OdinFK(2012年)・CC BY-SA 3.0・Commons / Amrei-Marie(2016年)・CC BY-SA 4.0・Commons / Martin Falbisoner(2013年)・CC BY-SA 3.0・Commons(いずれもトリミング加工)
ドイツ南部バイエルン州の州都ミュンヘンを本拠とする、国内最多35回のリーグ優勝を誇るドイツの絶対王者。欧州チャンピオンズカップ/CLも6度制し、世界有数のビッグクラブとして知られる。2011-12シーズンに宇佐美貴史がレンタルでプレーし、福井太智がトップチームの公式戦に出場。2024年からは伊藤洋輝が在籍し、リーグ優勝とDFBポカール優勝を経験している。
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2026-27シーズンのブンデスリーガで1位(18チーム中・勝ち点18)順位表 →
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
1900年2月27日、体操クラブMTV 1879のサッカー部門がドイツサッカー協会への加盟を認められなかったことに反発した11人のメンバーが独立して設立した。初代会長はベルリン出身のフランツ・ヨーン。1932年にはリヒャルト・コーン監督のもと、決勝でアイントラハト・フランクフルトを2-0で破って初めてドイツ王者になった。
ナチス政権の成立後、ユダヤ人だった会長クルト・ランダウアーと監督は国外へ去ることを余儀なくされ、クラブは「ユダヤ人のクラブ」と揶揄されて冷遇された。ランダウアーは戦後の1947年に帰国して会長に復帰している。1963年にブンデスリーガが創設された際には選ばれず、同じ街のライバル1860ミュンヘンが加盟。バイエルンが1部に上がったのは1965年だった。
昇格後はフランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、ゼップ・マイヤーらを擁して一気に黄金期を迎える。1967年にカップウィナーズカップで初の欧州タイトルを獲得し、1974年から1976年にかけてはアトレティコ・マドリード、リーズ・ユナイテッド、サンテティエンヌを破って欧州チャンピオンズカップを3連覇した。1990年代には選手のスキャンダルがゴシップ紙をにぎわせ「FCハリウッド」と呼ばれたが、1996年にはUEFAカップを制し、2001年には25年ぶりの欧州王者に返り咲いた。
2005-06シーズンからは新スタジアムのアリアンツ・アレーナに移転。2012-13シーズンにはユップ・ハインケス監督のもとでドイツのクラブとして初めて三冠(リーグ・DFBポカール・CL)を達成し、2019-20シーズンにはハンジ・フリック監督のもとで2度目の三冠を達成。翌シーズンにかけて国内外のスーパーカップとクラブW杯も制し、1年で6冠を手にした。ブンデスリーガでは2013年から2023年まで11連覇を記録している。
2023-24シーズンはバイエル・レヴァークーゼンに優勝を譲り、12季ぶりの無冠に終わった。2024年5月にヴァンサン・コンパニが監督に就任すると、2024-25シーズンにリーグ王座を奪還。2025-26シーズンは残り4試合で連覇を決め、DFBポカールも制して6季ぶりの国内二冠を達成した。
エンブレムエンブレムは、赤い円環に白で「FC BAYERN MÜNCHEN」の文字を入れ、その中心にバイエルン州の旗と同じ白と青の色を配したもの。最初のエンブレムは「F・C・B・M」の4文字を組み合わせた青い意匠で、バイエルンの白と青が初めて取り入れられたのは1954年だった。その後も何度も改められ、現在は青・赤・白の3色で構成されている。クラブカラーは赤と白だが、創設当初のチームカラーは青と白だった。
愛称: ディ・ロッテン(Die Roten=赤い人たち) / 南の星(Stern des Südens) / FCハリウッド(FC Hollywood)
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | ブンデスリーガ | 1 | ユリアン・ナーゲルスマン監督の1年目でリーグ10連覇。レヴァンドフスキがリーグ戦35得点。CLはベスト8、DFBポカールは2回戦敗退[1][4] |
| 2022-23 | ブンデスリーガ | 1 | 2023年3月にトーマス・トゥヘル監督へ交代し、ドルトムントとの接戦を制して11連覇。CLはベスト8、DFBポカールもベスト8[1][4] |
| 2023-24 | ブンデスリーガ | 3 | ハリー・ケインが加入1年目でリーグ戦36得点も、レヴァークーゼンに優勝を譲り12季ぶりの無冠。CLはベスト4[1][4][28] |
| 2024-25 | ブンデスリーガ | 1 | ヴァンサン・コンパニ監督の1年目で王座奪還。伊藤洋輝の加入1年目(2度の中足骨骨折でリーグ戦6試合出場)。CLはベスト8。トーマス・ミュラーが退団[1][4][13] |
| 2025-26 | ブンデスリーガ | 1 | 残り4試合で連覇を決め、DFBポカール決勝ではシュトゥットガルトを破って国内二冠。CLは準決勝でPSGに敗れベスト4[1][4] |
「アンツィングの猫」と呼ばれた反応の鋭いGK。17シーズンで公式戦709試合に出場し、2024年にトーマス・ミュラーに抜かれるまでクラブ最多出場記録を持っていた。欧州チャンピオンズカップ3連覇の守護神。[18]
「皇帝(カイザー)」の異名を持ち、現代的なリベロの役割を確立したとされる名選手。主将として1974〜76年の欧州チャンピオンズカップ3連覇を果たし、引退後は監督・会長としてもクラブを率いた。[19]
「爆撃機(デア・ボンバー)」と呼ばれたストライカー。ブンデスリーガ427試合で365得点を挙げ、現在もリーグ歴代最多得点記録を保持している。1970年にはバロンドールを受賞した。[20]
1980年と1981年に2年連続でバロンドールを受賞したアタッカー。リーグ戦310試合162得点。引退後は長くクラブの経営トップを務めた。[21]
「タイタン」と呼ばれた闘志あふれるGK。リーグ優勝8回、2001年のCL制覇などに貢献した。2002年日韓W杯ではGKとして史上唯一のゴールデンボールを受賞し、日本でも広く知られる。[22]
10歳で下部組織に入った生え抜き。公式戦756試合でクラブ最多出場記録を樹立し、250得点223アシスト。ブンデスリーガ優勝は史上最多の13回を数える。[1][24]
在籍8シーズンすべてでリーグ優勝。2020-21シーズンには、ゲルト・ミュラーが持っていたシーズン40得点の記録を49年ぶりに破るリーグ戦41得点を挙げた。[25]
クラブのドイツ語レッスンでのインタビューで、バイエルンとミュンヘンにすっかり馴染んだと話し、イーザル川や旧市街、日本食レストランがお気に入りで、ミュンヘンには本当においしい寿司があると語った。[14]
— 伊藤洋輝
2024年7月の入団会見で、チームメイト全員が初日から歓迎してくれたと明かした。ボールを保持する時間が長いチームなので、プレッシャー下での対応が鍵になるとも分析していた。[15]
— 伊藤洋輝
ガンバ大阪復帰後、バイエルンとホッフェンハイムでの2年間を「悔しい気持ちでいっぱい」だったと振り返った。それでも2015年には、もう一度バイエルンでプレーするのが夢だとテレビ番組で語っている。[16][17]
— 宇佐美貴史
トップチームデビュー後、加入してからずっとトップチームでプレーすることが大きな夢だったと喜びを語った。[10]
— 福井太智
日本だと福岡市(約168万人)くらいの規模
ドイツ南部、アルプスの北に位置しイーザル川が流れるバイエルン州の州都。ベルリン、ハンブルクに次ぐドイツ第3の都市で、人口密度はドイツの自治体で最も高い。1158年6月14日が公式の創設日とされ、1806年からはバイエルン王国の首都として芸術・建築・学術の中心地として発展した。
旧市街には、1468年から20年ほどで建てられたゴシック様式の大聖堂フラウエン教会がそびえる。1810年に皇太子の結婚を祝って開かれた祭りが、毎年秋のビール祭り「オクトーバーフェスト」の始まりになった。
1972年の夏季オリンピックと1974年W杯の決勝が開催された都市でもある。BMWなどの大企業が本社を構えるドイツ屈指の経済都市で、生活の質の高さでも世界有数の評価を受けている。
ミュンヘン北端のフレットマニングに建つスタジアム。スイスの建築事務所ヘルツォーク&ド・ムーロンが設計し、2002年10月に着工、2005年5月30日に開場した。膨らませたETFE樹脂のパネルで覆われた外観は、世界で初めて全面の色を変えられる外壁として知られる。ドルトムントのジグナル・イドゥナ・パルクに次ぐドイツで2番目に大きいスタジアム。
当初は1860ミュンヘンと共同で使っていたが、2006年に1860が財政難から持ち分をバイエルンに売却し、2017年の賃貸契約終了でバイエルンの単独使用になった。2012年と2025年にはCL決勝の会場となり、館内にはクラブ博物館「FCバイエルン・エアレープニスヴェルト」もある。UEFAの大会では「フースバル・アレーナ・ミュンヘン」の名前で呼ばれる。
1972年から2005年まで33年間本拠地としたミュンヘン・オリンピアシュタディオン。それ以前の1925年からは1860ミュンヘンと共にグリュンヴァルダー・シュタディオンを使っていた。
2017年8月1日に開設された育成拠点。総工費は約7,000万ユーロで、アリアンツ・アレーナから南西に2キロあまりの約30ヘクタールの敷地に8面のピッチと約2,500人収容のスタジアムを持つ。U-9からU-19までの男子チームと女子チームがここで練習・試合を行う。
敷地内のアカデミー棟には、ミュンヘン圏外から来た若手のための35戸の住居も用意されている。それ以前の育成組織からもフィリップ・ラーム、バスティアン・シュヴァインシュタイガー、トーマス・ミュラーらドイツ代表の中心選手が輩出された。
主な出身選手: フィリップ・ラーム、バスティアン・シュヴァインシュタイガー、トーマス・ミュラー、ダヴィド・アラバ、オーウェン・ハーグリーヴス、トーマス・ヒッツルスペルガー
2025年11月時点で公式会員は43万2,500人を超え、会員数で世界第2位のスポーツクラブ。公式ファンクラブは4,425団体を数え、世界で最も多くのファンを持つクラブのひとつに数えられる。
熱心なサポーターの中心はシッケリア・ミュンヘン、インフェルノ・バヴァリア、ズュートクルヴェ'73などのウルトラスグループ。シッケリアは反ユダヤ主義や差別に反対する活動が評価され、2014年にドイツサッカー連盟(DFB)のユリウス・ヒルシュ賞を受けた。
日本からはANAが羽田空港とミュンヘン空港を結ぶ直行便を運航している(最新のダイヤは航空会社で確認したい)。ミュンヘン空港は市の北東約28.5キロにあり、Sバーン(近郊電車)のS1・S8線で中央駅まで約40〜45分。
スタジアムへは地下鉄U6線で「Fröttmaning(フレットマニング)」駅下車。旧市街の中心マリエン広場からU6一本で行ける。駅からは公園の中のゆるやかな上り坂の遊歩道を歩いてスタジアムの入口へ向かう。
需要が非常に高く、ほとんどの試合のチケットは会員限定で販売される。一般のファンにとっての窓口はクラブ公式の「チケット交換所(Ticket Exchange)」で、需給次第で遅くとも試合の週には全ファン向けに開放されるのが通例。販売は定価のみで、キックオフ3時間前まで売買できる。viagogoなど非公式の転売サイトで買ったチケットは無効になるので注意したい。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。