Borussia Verein für Leibesübungen 1900 e. V. Mönchengladbach
オランダ国境とデュッセルドルフの間、ニーダーライン地方の街メンヒェングラートバッハを本拠とする古豪。若手中心の攻撃サッカーで「子馬(フォーレン)」と呼ばれ、1970年代にブンデスリーガ5度の優勝とUEFAカップ2度の制覇を果たした。2022年に加入した板倉滉が「家に帰ってきたような気分」と語って2026年に復帰し、2026-27シーズンは板倉・町野修斗・橋岡大樹・宇野禅斗の日本人4人が在籍している。
📅 クラブ紹介(歴史・街・スタジアムなど)は2026年11月5日時点の情報です(出典36件)。試合・順位・今季成績は毎日自動で更新しています。
2026-27シーズンのブンデスリーガで18位(18チーム中・勝ち点4)順位表 →
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
1899年にTVゲルマニア・グラートバッハを離れた選手たちが母体となり、1900年8月1日に市内アイケン地区で「FCボルシア1900」が誕生した。ボルシアはプロイセンのラテン語名で、当時この地がプロイセン領だったことに由来する。1919年には自前の競技場(のちのベーケルベルク)を開き、1960年にはDFBポカール決勝でカールスルーエSCを3-2で破って最初の全国タイトルを手にした。
1963年に始まったブンデスリーガには当初加われなかったが、1964年4月にヘネス・ヴァイスヴァイラーが監督に就任すると、翌1965年に1部昇格を果たす。若い選手が躍動する攻撃的なスタイルから「フォーレン(子馬たち)」と呼ばれ、ギュンター・ネッツァー、ベルティ・フォクツ、ユップ・ハインケスらを擁して1969-70シーズンに初優勝、翌季にはブンデスリーガ史上初の連覇を達成した。1973年のDFBポカール決勝では、延長戦でネッツァーが自ら交代出場して決勝点を挙げた逸話が今も語り継がれている。
1975年にはリーグとUEFAカップの2冠を達成。ヴァイスヴァイラーがバルセロナへ去った後はウド・ラテックが率い、1976・1977年とリーグ連覇を重ねた。1977年にはチャンピオンズカップ(現CL)決勝に進んだがリヴァプールに1-3で敗れ、1978年にはドルトムントにブンデスリーガ史上最多の12-0で勝ちながら得失点差で優勝を逃した。1979年にはアラン・シモンセンのPKでUEFAカップ2度目の優勝を果たし、黄金時代はひと区切りを迎えた。
1995年にDFBポカールを制して16年ぶりのタイトルを獲得したものの、1999年にクラブ史上初めて2部へ降格。2001年に1部へ戻り、2004年7月には新本拠地ボルシア・パルクへ移った。2007年に再び降格したが、翌2008年に2部優勝で即時復帰。2011年に就任したルシアン・ファヴレ監督のもとで入れ替え戦から立て直し、2011-12シーズン4位、2014-15シーズン3位と上位に返り咲いた。
2020-21シーズンにはマルコ・ローゼ監督のもとでチャンピオンズリーグのグループを2位で突破し、43年ぶりに欧州最高峰の決勝トーナメントに進んだ(ラウンド16でマンチェスター・シティに敗退)。その後は監督交代が続き、2021-22シーズン以降はリーグ中位から下位で推移している。2025-26シーズンは開幕直後にセオアネ監督を解任し、オイゲン・ポランスキの下で12位で残留。2026-27シーズンも開幕から6連敗と苦しみ、2026年9月にアレクサンダー・ブレシンが監督に就いた。
エンブレムエンブレムは菱形(ラウテ)の中にクラブ名の頭文字「B」を描いたデザイン。クラブカラーは黒・白・緑で、ファンはこの3色を誇りを持って身につけている。ブンデスリーガで5度優勝しているため、ドイツの「優勝回数を示す星」の規定により2つの星を付ける資格を持つ。
愛称: フォーレン(Die Fohlen=子馬たち) / ボルッセン(Die Borussen)
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | ブンデスリーガ | 10 | ヒュッター監督の1年目(この季限りで退任)。DFBポカール2回戦でバイエルンに5-0で大勝したが、ラウンド16で2部のハノーファーに敗退[9][10] |
| 2022-23 | ブンデスリーガ | 10 | ファルケ監督のもと、板倉滉の加入1年目。DFBポカールは2回戦でダルムシュタットに敗退[9][24] |
| 2023-24 | ブンデスリーガ | 14 | セオアネ監督の1年目。DFBポカールは準々決勝でザールブリュッケンに敗退。2024年1月に福田師王がトップチームへ昇格[9][10][22] |
| 2024-25 | ブンデスリーガ | 10 | 板倉滉がリーグ戦32試合4得点。福田師王がブンデスリーガ初得点。DFBポカールは2回戦でフランクフルトに敗退[9][22][24] |
| 2025-26 | ブンデスリーガ | 12 | 町野修斗の加入1年目、1月から高井幸大がレンタルで在籍。第3節後にセオアネ監督を解任しポランスキが後任に。第32節でドルトムントを1-0で破り残留確定。DFBポカールはラウンド16敗退[9][10][26] |
就任翌年の1965年にブンデスリーガ昇格を果たし、若手主体の攻撃的な「フォーレン」を築いた。リーグ優勝3回、DFBポカール、UEFAカップを制した黄金期の生みの親。[1][13]
司令塔として1970・1971年のリーグ連覇を牽引。1973年のDFBポカール決勝で自ら交代出場して決勝点を挙げ、その直後にレアル・マドリードへ移った。[1][14]
ボルシア一筋の守備の要で、ブンデスリーガ419試合出場はクラブ最多記録。5度のリーグ優勝と2度のUEFAカップ制覇を経験し、1974年W杯優勝メンバー。のちにドイツ代表監督としてEURO96を制した。[10][15]
ブンデスリーガ195得点はクラブ最多記録。引退後はボルシアの監督も務め、のちにレアル・マドリード(1998年)とバイエルン(2013年)でCLを制した名将になった。[10][16]
アタッカーとして3度のリーグ優勝に貢献し、1977年にバロンドールを受賞。1979年のUEFAカップ決勝第2戦ではPKで優勝を決めた。[1][17]
22年間ボルシア一筋で、ブンデスリーガ390試合はフォクツに次ぐクラブ歴代2位。1995年のDFBポカール優勝を経験し、1992年のポカール準決勝ではPKを4本止めた。[4][10][18]
最下位だった2011年2月に就任し、入れ替え戦で残留を勝ち取った。翌季4位、2014-15シーズン3位でCL本大会出場へ導き、低迷期からの復活を実現した。[1][20]
ロート・ヴァイス・アーレンから加入し、ブンデスリーガ97試合36得点。2011年の入れ替え戦でも得点し、2012年にドイツ年間最優秀選手に選ばれてドルトムントへ移籍した。[19]
在籍3年目を前にしたクラブ公式インタビューで、クラブ、スタジアム、ファンのすべてが好きだと語った。かつてCLを戦った歴史あるクラブだけに、苦しいシーズンが続いたサポーターへの責任を感じ、早く上位に戻したいと話した。[30]
— 板倉滉
アヤックスから1年で復帰した際、再びボルシアの一員として戦えることを喜び、「家に帰ってきたような気分」だと表現した。[23]
— 板倉滉
加入発表時、どうしてもボルシアに移籍したかったと明かし、移籍が実現したことを喜ぶとともに、できるだけ早くチームの力になりたいと話した。[27]
— 町野修斗
代理人からボルシアが関心を持っていると聞いてとてもうれしく、すぐに移籍したいと思ったと加入時に語り、ブンデスリーガでの挑戦を楽しみにしていると話した。[28]
— 橋岡大樹
日本だと福島市(約26.6万人)くらいの規模
ドイツ西部、ライン川の西側に広がるニーダーライン(下ライン)地方の街。デュッセルドルフの中心部から西へ約25キロ、デュッセルドルフとオランダ国境のほぼ中間に位置する。ボルシア自身もクラブの歴史を紹介するページで「ニーダーラインを故郷に」と掲げている。
街の起源は974年に創建されたグラートバッハ修道院。1888年に、近くのベルギッシュ・グラートバッハと区別するため「修道士(メンヒ)」を冠した名前になった。1975年には隣町ライトと合併し、現在の市域になっている。
19世紀半ばから20世紀半ばにかけてはラインラント地方の繊維産業の中心地として発展した。現在は繊維・ファッションのほか、機械・電機、物流、ヘルスケアなどが主な産業。修道院の丘アプタイベルクには現代美術館があり、2013年までは英国陸軍のドイツ司令部(JHQ ラインダーレン)も置かれていた。
2002年から2004年にかけて建設され、2004年7月30日に開場。開場の日には、数千人のファンが旧本拠地ベーケルベルクから新スタジアムまで行列をつくって歩いた。かつての英国軍の兵舎跡地に建ち、敷地には練習場やクラブハウス、ユースの寮、クラブ博物館「フォーレンヴェルト」、ホテルなどが集まっている。
2004年の開場以来スポンサー名を付けずにきたが、2026年7月1日からエネルギーサービス企業イスタが命名権を持ち「イスタ・ボルシア・パルク」となった。熱狂的なサポーターが集まるのは北側の「ノルトクルヴェ」。
1919年から2003-04シーズン終了まで本拠地だったベーケルベルク(収容34,500人)。市内アイケン地区にあり、1971年の「缶投げ事件」で無効になったインテル戦7-1など数々の伝説の舞台になった。2004年5月の最終戦から約2年後に取り壊された。
1960〜70年代に若い選手と攻撃サッカーで「フォーレン」と呼ばれた歴史から、クラブは今も育成を自らの道と位置づけ、ユースからトップチームへの「通り抜けやすさ」を重視している。育成はU9〜U13の基礎、U14〜U16の発展、U17〜U23の育成強化の3段階で、ボール中心で攻撃的・能動的・創造的なサッカーを共通の指針にしつつ、決まったシステムにはこだわらず複数ポジションをこなせる選手を育てている。
ユースの寮「フォーレンシュタール」はスタジアムのあるボルシア・パルク内にある。2025年にはU17がホームで行われた決勝でRBライプツィヒを3-1で破り、44年ぶりにドイツ王者となった。
主な出身選手: ローター・マテウス、シュテファン・エッフェンベルク、マルク=アンドレ・テア・シュテーゲン、マフムード・ダフード、マルセル・ヤンセン、パトリック・ヘルマン
会員数は10万人を超え、ドイツ有数の大クラブ。国内外に1,200以上の公式ファンクラブがある。熱心なサポーターの中心は北側スタンド「ノルトクルヴェ」で、約2万1,500人が陣取る。シーズンチケットは上限3万枚が毎年売り切れ、順番待ちのリストができているほど。
サポーターはリヴァプールと長年の友好関係にあり、1989年のヒルズボロの悲劇の際には遺族のために募金を集めた。マインツのファンとも1994年のポカールの試合をきっかけに友好関係がある。
デュッセルドルフ空港には日本からの直行便がないため、欧州の主要空港で乗り継いで向かうことになる。デュッセルドルフ中央駅からメンヒェングラートバッハ中央駅へは、RE4・RE13・Sバーン8号線などの在来線が頻繁に走っている。ケルン中央駅からもRE8などで結ばれている。
試合日はメンヒェングラートバッハ中央駅(駅裏口)とライト中央駅から、キックオフ3時間前より5分間隔でスタジアム行きのシャトルバスが出ており、試合後も2時間運行する。ホームゲームのチケットは、ライン=ルール地域(VRR)とアーヘン地域(AVV)の公共交通の乗車券を兼ねる。入場はキックオフの2時間前から。
シーズンチケットは上限3万枚で一般販売はなく、人気の高い試合はクラブ会員に優先購入権がある。一般のファンにとっては、公式オンラインショップの「再販売(ツヴァイトマルクト)」が頼りになり、キックオフ直前まで出品・購入できる。最新情報はクラブ公式サイトのチケットページで確認したい。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。