Hannoverscher Sport-Verein von 1896 e. V.
ホームのスタンドでサポーターが描いたクラブエンブレムのコレオグラフィー(2013年8月)
池に姿を映すハノーファーの新市庁舎。1913年に開館した街のシンボル
ヘレンハウゼン王宮庭園の大庭園(グローサー・ガルテン)。ヨーロッパ有数のバロック庭園
写真: Jonas aus Großwechsungen (Diskussion). Original uploader was Jonas aus Großwechsungen at German Wikipedia(2013年)・CC BY-SA 3.0・Commons / MHM55(2024年)・CC BY-SA 4.0・Commons / Hajotthu(2013年)・CC BY 3.0・Commons(いずれもトリミング加工)
ドイツ北部、ニーダーザクセン州の州都ハノーファーを本拠とする古豪。1938年と1954年にドイツ王者となり、1992年には2部のクラブとしてDFBポカールを制した。酒井宏樹・清武弘嗣・原口元気・室屋成ら多くの日本人がプレーしてきたクラブで、2026-27シーズンは水戸ホーリーホックとの提携を経てトップチームに昇格した松田隼風が在籍している。
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2026-27シーズンの2.ブンデスリーガで12位(18チーム中・勝ち点11)順位表 →
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
1896年4月12日、ハノーファーシャー・フースバル・クラブ(HFC)として創設された。名前に反して最初はラグビーをしており、サッカーに取り組むようになったのは1899年から。1913年7月3日にBVハノーヴェラ1898と合併し、現在の「ハノーファーシャー・シュポルト・フェライン・フォン1896」となった。クラブカラーは黒・白・緑だが、前身のHFCの時代から赤いユニフォームで戦い続けてきたため「ディ・ローテン(赤いチーム)」と呼ばれている。
1938年、ベルリンで行われたドイツ選手権決勝で当時の最強チームだったシャルケ04と対戦。3-3で再試合となり、延長の末に4-3で破って初優勝を果たした。1954年にはヘルムート・クロンスバイン監督のもと、のちにW杯を制する代表選手を多く抱えた1.FCカイザースラウテルンを5-1で下し、2度目の優勝。1963年のブンデスリーガ創設時には参加を認められず、地元のライバルであるアイントラハト・ブラウンシュヴァイクが選ばれたが、翌1964年に昇格を勝ち取った。
1970〜80年代は1部と2部を行き来した。1992年には2部所属ながらDFBポカールで1部の5クラブを次々に破り、決勝でボルシア・メンヒェングラートバッハをPK戦の末に下して優勝。PKを止め続けたGKイェルク・ズィーファースは「ポカールの英雄」と呼ばれた。一方で1996年には3部相当のレギオナルリーガまで降格。1998年に2部へ戻ると、補聴器メーカーの経営者マルティン・キントが会長に就き、2002年にはラルフ・ラングニック監督のもと2部優勝で1部に復帰した。
2002年から2016年までは14シーズン続けて1部に在籍。2009年11月に主将でドイツ代表GKのロベルト・エンケが亡くなるという悲劇に見舞われたが、2010-11シーズンにはミルコ・スロムカ監督のもとクラブ最高の4位に入り、翌シーズンのヨーロッパリーグでは準々決勝まで勝ち進んだ(アトレティコ・マドリードに敗退)。この時期から酒井宏樹、清武弘嗣、山口蛍と日本代表選手が相次いで加入した。
2016年に降格し、翌2017年に1年で1部へ復帰したものの、原口元気と浅野拓磨が加わった2018-19シーズンに再び降格。以降は2部で戦っている。経営面では、キントが出資者の議決権を制限する「50+1ルール」の適用除外を求め、ファンの強い反発を招いた(2018年にDFLが申請を却下)。2025-26シーズンは4位で昇格圏にわずかに届かず、2026-27シーズンも2部で戦う。開幕5試合で勝ち点4にとどまってクリスティアン・ティッツ監督が解任され、サンドロ・ヴァーグナーが新監督に就いた。
エンブレムクラブカラーは黒・白・緑。ただしユニフォームは創設期のHFCから受け継いだ赤が伝統で、新聞では1930年ごろから「赤シャツ」と呼ばれ、それが今の愛称「ディ・ローテン」につながっている。エンブレムは1960年代以降たびたび改められてきた。
愛称: ディ・ローテン(Die Roten=赤いチーム) / ゼヒスウントノインツィガー(96er)
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | 2.ブンデスリーガ | 11 | シーズン途中に監督が交代。室屋成が右サイドバックとして在籍[2][7][18] |
| 2022-23 | 2.ブンデスリーガ | 10 | 前半戦は5位と好調だったが失速。2部に戻ってきたブラウンシュヴァイクとのダービーは1分1敗[2][8] |
| 2023-24 | 2.ブンデスリーガ | 6 | 水戸から期限付きで加入した松田隼風がU-23チームでプレーし、3部昇格に貢献[2][9][21] |
| 2024-25 | 2.ブンデスリーガ | 9 | 一時は首位に立ったが、シーズン中に2度の監督交代。室屋成のラストシーズン[2][10][18] |
| 2025-26 | 2.ブンデスリーガ | 4 | 開幕4連勝で昇格争いを続けたが、3位(入れ替え戦)に届かず。横田大祐が公式戦31試合5得点4アシスト、松田隼風がトップチームに昇格[2][11][21][24] |
1954年、代表選手のいないチームでカイザースラウテルンを5-1で破り、2度目のドイツ王者に導いた。1964年のブンデスリーガ昇格も指揮した。[2][32]
ブンデスリーガでクラブ最多の72得点を挙げた攻撃的MF。クラブ史上最高の選手と評されることも多く、2006年W杯ではハノーファー開催の大使を務めた。[4][31]
1992年のDFBポカールで準決勝・決勝ともPK戦で活躍し「ポカールの英雄」に。2部ではクラブ最多の367試合に出場し、長く主将を務めた。[2][29]
14年間在籍した守備的MF。2002年の1部復帰に貢献し、主将としてもチームを支えた。2012年5月の退団試合ではホームのスタンドから総立ちの拍手で送り出された。[28]
プロ生活をすべてハノーファーで過ごした右サイドバック。ブンデスリーガ出場はクラブ最多の300試合以上で、ファンからは「ハノーファーの市長」と呼ばれた。[2][4][27]
公式戦180試合に出場した主将でドイツ代表GK。2009年11月に32歳で亡くなった。スタジアムの住所は彼の名を冠した「ロベルト・エンケ通り」。[26][28][35]
エンケの死後に低迷したチームを残留させ、2010-11シーズンにクラブ最高の4位、2011-12シーズンにヨーロッパリーグ8強へ導いた。若手時代のメルテザッカーらを育てたユース指導者でもある。[2][33]
2022年末の契約延長時、日本からの移籍は大きな一歩だったが、ハノーファーでは初日から馴染めたと振り返った。家族とともにとても居心地よく暮らしており、96は自分にとって「特別なクラブ」になったと話した。[20]
— 室屋成
2025年5月、息子の小学校入学に合わせて家族で日本へ戻るため退団。ハノーファー96はずっと心の中にあり、このクラブを決して忘れないと、チームメイトやスタッフ、ファンに感謝を伝えた。[18]
— 室屋成
トップチームへの完全移籍が決まった際、U-23での2年間で、日本とは違うハードでスピーディーな環境を経験できたと語った。送り出してくれた水戸のサポーターとの約束も忘れていないと話している。[21]
— 松田隼風
加入時、クラブとの交渉は前向きに進み、首脳陣が自分の強みを理解したうえでチームへのフィットの仕方を説明してくれたことが決め手になったと語った。[23]
— 横田大祐
日本だと八王子市(約57.4万人)くらいの規模
北ドイツ平野の南端、ライネ川のほとりに広がるニーダーザクセン州の州都。1714年から1837年まではハノーファーの君主がイギリス国王を兼ねる同君連合の関係にあった。東西(ベルリン〜ルール地方)と南北(ハンブルク〜フランクフルト・ミュンヘン)を結ぶ鉄道・高速道路の交差点で、中央駅はドイツの高速列車ICEの拠点のひとつ。
「緑の中の大都市」と呼ばれ、市域の1割以上が公共の緑地。中心部近くには650ヘクタールの市有林アイレンリーデが広がり、スタジアムのそばには1936年に造られた78ヘクタールの人造湖マッシュ湖がある。ヘレンハウゼン王宮庭園の大庭園(グローサー・ガルテン)はヨーロッパを代表するバロック庭園として知られる。
2000年にはドイツで初めての万国博覧会(Expo 2000)が開かれた。毎年7月の射撃祭(シュッツェンフェスト)は世界最大規模で、約90万人が訪れる。広島市とは1983年から姉妹都市で、戦争の犠牲者を悼むエギディエン教会の廃墟には、1985年に広島から贈られた「平和の鐘」が置かれている。
市の中心部の南、マッシュ湖のほとりのスポーツパークに建つ。1954年9月に「ニーダーザクセンシュタディオン」として開場。空襲で壊れた市内の建物の瓦礫を積み上げて土手をつくり、その上にスタンドを築いた。当初の収容人数は86,656人で、当時の西ドイツではベルリンのオリンピアシュタディオンに次ぐ大きさだった。1974年W杯、EURO 1988、2006年W杯の会場にもなっている。
2006年W杯に向けて2003年から改修され、約7割を取り壊して陸上トラックのないサッカー専用スタジアムに生まれ変わった。2005年1月に再オープンし、全49,000席(うち立ち見約8,000)が屋根に覆われている。命名権によって「AWDアレーナ」「HDIアレーナ」と名前を変え、2022年7月から現在の名前になった。地元では今も「ニーダーザクセンシュタディオン」と呼ばれることがある。
1950年代までは市内プフェルデトゥルムの自転車競技場(1959年に取り壊し)が本拠地で、大一番はアイレンリーデシュタディオンで戦った。
2014年5月、歴史あるアイレンリーデシュタディオンの敷地に育成センターを整備することを決めた。セカンドチームのU-23はこのスタジアムを本拠とし、2024-25シーズンには初めて3部リーグで戦った(1年で降格)。
2023年7月から水戸ホーリーホックと3年間の育成提携を結び、毎シーズン1人の選手をU-23チームに受け入れている。第1号の松田隼風は2年間のレンタルを経てトップチームと契約した。1990年代にはのちのスロムカ監督がU-19を指導し、ゲラルト・アサモア、セバスティアン・ケール、ペア・メルテザッカーといった代表選手が育った。
主な出身選手: ペア・メルテザッカー、セバスティアン・ケール、ゲラルト・アサモア
会員数は約25,000人(2026年6月時点)で、ニーダーザクセン州で最大のスポーツクラブ。サッカー以外にも多くの競技部門を持つ。ホームゲームの前には、1998年に生まれたクラブ歌「96 – アルテ・リーベ(古き愛)」がスタジアムで流れる。
ハンブルガーSVのファンとはドイツでも屈指の強い友好関係で知られ、アルミニア・ビーレフェルトのファンを加えた3クラブで「ノルト・アリアンツ(北の同盟)」と呼ばれる。一方で2010年代後半には、キント会長が50+1ルールの適用除外を求めたことに熱心なファン層が抗議し、応援をボイコットする時期もあった。
日本から向かう場合は、ヨーロッパの主要空港で乗り継いでハノーファー空港(HAJ)に入るか、フランクフルトなどから高速列車ICEでハノーファー中央駅を目指すのが一般的。
スタジアムの住所はロベルト・エンケ通り。中心部から路面電車(シュタットバーン)3・7・9・13号線で「Waterloo」、または3・7・13号線で「Stadionbrücke」停留所へ。バス100・200番の「Robert-Enke-Straße」も近い。試合のチケットを持っていれば、ÜSTRAのエリア内のバス・電車に無料で乗れる。
ホームゲームのチケットはクラブ公式のオンラインショップで販売され、スマートフォンに入れて使うデジタルチケットにも対応している。スタジアムのファンショップでも前売りを扱うが、試合当日は購入できない。最新情報はクラブ公式サイトのチケットページで確認したい。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。