Fußballclub Gelsenkirchen-Schalke 04 e. V.
炭鉱のボタ山だったルンゲンベルクの丘から望むフェルティンス・アレーナ
炭鉱跡地の公園ノルトシュテルンパーク。ライン=ヘルネ運河に架かる赤いアーチの橋
写真: Frank Vincentz(2013年)・CC BY-SA 3.0・Commons / Michielverbeek(2018年)・CC BY-SA 4.0・Commons(いずれもトリミング加工)
ドイツ西部、かつて欧州随一の炭鉱の街だったルール地方のゲルゼンキルヒェンを本拠とするクラブ。ドイツ王者7回・DFBポカール5回・1997年UEFAカップ優勝を誇り、会員数は22万人に達する。内田篤人が7年間プレーして2011年のチャンピオンズリーグ4強を経験したクラブで、2026年夏には2部優勝で1部に戻ったチームに、クラブ史上5人目の日本人選手として田中聡が加わった。
📅 クラブ紹介(歴史・街・スタジアムなど)は2026年11月5日時点の情報です(出典36件)。試合・順位・今季成績は毎日自動で更新しています。
2026-27シーズンのブンデスリーガで17位(18チーム中・勝ち点6)順位表 →
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
1904年5月4日、シャルケ地区の炭鉱やキッチン用品工場で働く見習いの少年たちが「ヴェストファーリア・シャルケ」を結成したのが始まり(創設時の文書は残っておらず、創設日は口伝による)。当初のクラブカラーは赤と黄だった。1912年に地元の体操クラブに合流したのち、1924年にサッカー部門が独立して「FCシャルケ04」を名乗り、現在の青と白を採用。1928年には炭鉱跡地にグリュックアウフ・カンプフバーンを建て、市の援助への感謝から「FCゲルゼンキルヒェン=シャルケ04」に改称した。
イングランド育ちのバルマン兄弟が持ち込んだ短いパスをつなぐスタイルは、エルンスト・クッツォラとフリッツ・シェパンの義兄弟のもとで「シャルケの独楽(Schalker Kreisel)」として完成。1930年には選手への金銭支払いで一時協会から除名される「プロ化スキャンダル」も起きたが、1934年に初めてドイツ王者となり、1942年までに6度の優勝を記録した。1937年にはドイツで初めてリーグとカップの二冠を達成。この時代の成功はナチス政権の宣伝にも利用された。戦後は1958年に7度目のリーグ制覇を果たした。
1963年のブンデスリーガ創設メンバーとなったが、1971年の八百長事件(ブンデスリーガ・スキャンダル)では多くの選手が処分を受けた。1972年にDFBポカールを制し、1973年には陸上トラック付きのパルクシュタディオンへ移転。1981・1983・1988年と3度2部に降格し財政難にも苦しんだが、1991年に1部復帰。1993年にマネージャーに就いたルディ・アッサウアーのもと、1996-97シーズンには「ユーロファイター」と呼ばれたチームがUEFAカップ決勝でインテルをPK戦で破り、クラブ史上最大のタイトルを手にした。
2000-01シーズンは最終節で一度は優勝を確信しながら、バイエルンが試合終了間際に追いついて勝ち点で上回り、「心の王者(Meister der Herzen)」と呼ばれた。同年と翌年にDFBポカールを連覇し、2001年8月には新本拠地アレーナ・アウフシャルケ(現フェルティンス・アレーナ)が開場。その後も2005・2007・2010年とリーグ2位に入った。2010年に内田篤人、ラウール、フンテラールらが加わった2010-11シーズンは、リーグ14位ながらチャンピオンズリーグでクラブ史上初の準決勝に進出(マンチェスター・ユナイテッドに敗退)し、DFBポカール決勝ではデュイスブルクに5-0で勝って5度目の優勝を飾った。
2017-18シーズンにリーグ2位に入ったのを最後に低迷が始まり、2020-21シーズンには1シーズンで5人の監督が指揮を執るなか最下位で30年ぶりの2部降格。2021-22シーズンに板倉滉らの活躍で2部優勝し1年で戻ったが、2022-23シーズンに17位で再び降格した。2部では2023-24シーズン10位、2024-25シーズン14位と苦しんだものの、2025-26シーズンにミロン・ムスリッチ監督のもとリーグ最少失点の守備で巻き返し、第32節で昇格と2部優勝を決めた。2026-27シーズンは1部に復帰している。
エンブレム1945年から使われているエンブレムは、様式化した「G」の中に「S04」の文字を収めたデザイン。「G」は本拠地ゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)の頭文字で、1958年に炭鉱で使うハンマー(槌)の形が浮かび上がるよう描き直され、炭鉱労働者が創ったクラブの原点を示している。一時期は外枠を三重の同心円とし、戦前の「シャルケの独楽」を表していたこともある。
愛称: ディ・クナッペン(Die Knappen=炭鉱夫たち) / ケーニヒスブラウエン(Die Königsblauen=王者の青)
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | 2.ブンデスリーガ | 1 | 板倉滉がマンチェスター・シティからのレンタルで加入し主力に。シーズン途中にグラモジス監督からビュスケンス監督に交代し、2部優勝で1年での1部復帰を決めた[2][4][15] |
| 2022-23 | ブンデスリーガ | 17 | 吉田麻也が加入1年目、上月壮一郎がトップチームデビュー。後半戦に持ち直したが、クラブ5度目の2部降格[2][4][17][19] |
| 2023-24 | 2.ブンデスリーガ | 10 | 10月にカレル・ヘラールツ監督が就任。長く残留争いに巻き込まれ、第32節で残留を確定させた[2][4] |
| 2024-25 | 2.ブンデスリーガ | 14 | 監督交代が続き、降格プレーオフ圏まで勝ち点3差で終えた。2部ながらホーム平均観客は6万人を超えた[2][4] |
| 2025-26 | 2.ブンデスリーガ | 1 | ミロン・ムスリッチ監督の1年目。前半戦をリーグ最少失点で首位で折り返し、第32節で1部昇格と2部優勝を決めた[2][4] |
シャルケ生まれの炭鉱労働者の息子で、義弟シェパンとともに「シャルケの独楽」を体現し、6度のドイツ王者に貢献。1934年の初優勝を決める決勝点を挙げた。クラブ事務所のある通りは彼の名を冠している。[2][28]
ブンデスリーガ295試合182得点はいまもクラブ最多記録。オーバーヘッドキックの名手として知られ、1977年のスイス戦で決めた一撃はドイツの「世紀のゴール」に選ばれた。[2][29]
ゲルゼンキルヒェン生まれ。18歳だった1984年、DFBポカール準決勝のバイエルン戦(6-6)でハットトリックを記録。バイエルンを経て戻り、1997年UEFAカップ優勝チームで主将を務めた。1990年W杯優勝メンバー。[2][30]
1997年のUEFAカップ優勝、2001・2002年のDFBポカール連覇を指揮。1999年にファン投票で「世紀の監督」に選ばれ、2019年と2020年にも暫定監督として呼び戻された。[2][31]
1997年UEFAカップ決勝のPK戦で優勝を決める最後のキックを成功させた「ユーロファイター」の象徴。闘志あふれるプレーでファンに愛され、2024年には一時スポーツディレクターも務めた。[2][32]
ゲルゼンキルヒェン出身で、全年代をシャルケの下部組織で過ごした。2006-07シーズンに正GKの座をつかみ、2010-11シーズンは主将としてCL4強とDFBポカール優勝を経験。2011年にバイエルンへ移籍した。[2][33]
レアル・マドリードの象徴として2010年に加入。2011年のDFBポカール準決勝バイエルン戦で決勝点を挙げ、ポカールとスーパーカップを制した。在籍2年ながらクラブの殿堂「エーレンカビーネ」に名を連ねる。[2][34]
2011-12シーズンにリーグ29得点で得点王。2011年のDFBポカール決勝では2得点を挙げた。クラブ歴代2位の得点者で、2021年には37歳で復帰しクラブ最年長のブンデスリーガ得点記録を作った。[35][36]
小笠原満男との対談で、シャルケはドイツでも特に熱いクラブだと紹介。試合の日は街の店が閉まり街ぐるみでチームを応援すること、ドルトムントとのダービーではサポーター同士が鉢合わせしないよう電車の車両から分けられ、警官が道を囲むことを明かした。[25]
— 内田篤人
レンタル期間を終えて退団が決まった際、SNSでシャルケを「素晴らしいクラブ」と呼び、チームとともに最高のシーズンを過ごせたことに感謝。クラブの皆と離れるのが寂しいと語り、ドイツ語で幸運を祈る言葉を添えた。[16]
— 板倉滉
ブンデスリーガデビューを控えたクラブ公式のインタビューで、ここで本当に幸せを感じており移籍は正しい決断だったと話した。長年憧れてきた吉田麻也の存在が、チームに溶け込む助けになったという。[22]
— 上月壮一郎
加入発表に際し、クラブ首脳陣が自分がチームのスタイルにどう当てはまるかを具体的に示してくれたことに強い印象を受けたと説明。フェルティンス・アレーナでの最初の試合を楽しみにしていると語った。[23][24]
— 田中聡
日本だと神奈川県平塚市(約25.8万人)くらいの規模。田中聡が育った湘南ベルマーレの本拠地と同じくらいの街だ
ドイツ最大の都市圏ルール地方の中心にある街。1840年に石炭の採掘が始まると人口が急増し、20世紀初頭には欧州で最も重要な炭鉱都市と呼ばれた。夜になるとコークス工場のガスを燃やす炎があちこちで灯ったことから「千の炎の街」の異名を持つ。クラブ名の「シャルケ」は市内の地区名で、現在のスタジアムは北部のエルレ地区にある。
炭鉱や重工業を支えたのは、東プロイセンやポーゼン、シレジアなど東方から移り住んだ労働者たちで、戦後は南欧やトルコからも多くの人が働きに来た。1928年には北隣の街ブーアなどと合併して現在の市域になった。
最後の炭鉱だったエーヴァルト・フーゴ鉱が2000年4月に閉山し、石炭産業の時代は終わった。その後は太陽光発電などへの産業転換を図ってきたが、失業率の高さは長年の課題。一方で炭鉱跡地を公園に変えたノルトシュテルンパークなど、産業遺産を活かした街づくりも進んでいる。
ドルトムント、エッセン、ボーフムといったルール地方の大都市に囲まれ、どこへも電車で移動しやすい。在籍中の内田篤人は、ライン川沿いの州都デュッセルドルフに住んでシャルケに通っていた。
2001年8月に「アレーナ・アウフシャルケ」として開場し、2005年からはビール醸造会社フェルティンスの命名権によりフェルティンス・アレーナと呼ばれている(大会規定でスポンサー名を使えないEURO2024では元の名称を使用)。開閉式の屋根に加え、札幌ドームのようにピッチそのものを屋外へ引き出せる構造を持ち、天然芝を傷めずにコンサートなども開ける。
リーグ戦では北側スタンドに約1万6,000人分の立ち見席があり、ここがサポーターの中心になる。2004年のチャンピオンズリーグ決勝、2006年W杯の5試合、EURO2024の4試合を開催した。スタジアム内にはクラブ博物館と礼拝堂もある。
1973年から2001年までは陸上トラック付きのパルクシュタディオン(当初約7万人収容)、それ以前の1928年から1973年までは炭鉱跡地に建てたグリュックアウフ・カンプフバーンが本拠地だった。
「炭鉱夫の鍛冶場」を意味するクラブの育成組織で、ドイツ屈指のアカデミーとして知られる。1991年に育成担当として招かれたボド・メンツェが専任コーチを置くなど体制を整え、1993年には地元の総合学校と提携して学業との両立を図った。2015年から2025年の間だけで40人以上がトップチームで公式戦デビューを果たしている。
U-19(Aユース)は1976・2006・2012・2015年にドイツ王者となった。1996年からユースを指導するノルベルト・エルゲルトのもとから多くの代表選手が育ち、2014年W杯で優勝したドイツ代表にはノイアー、ヘーヴェデス、エジル、ドラクスラーの4人のアカデミー出身者が名を連ねた。
主な出身選手: マヌエル・ノイアー、メスト・エジル、ベネディクト・ヘーヴェデス、ユリアン・ドラクスラー、レロイ・サネ、ジョエル・マティプ、ラルフ・フェールマン
会員数は約22万人(2026年7月時点)で、世界でも有数の会員数を誇るクラブ。2部に在籍した2024-25シーズンもホーム平均6万1,000人以上を集め、観客動員数で欧州14位に入った。1978年に発足したファンクラブ連盟には数百のファンクラブが加盟し、その代表はクラブの監査役会にも席を持つ。
試合前には炭鉱夫の歌「シュタイガーリート」がスタジアムに響く。2012年にはスタジアムが見える墓地に、ファンのための共同墓地「シャルケ・ファン・フェルト」が作られた(区画数は創設年にちなむ1904)。1980年代初めからは1.FCニュルンベルクのサポーターと深い友好関係にある。
日本から向かう場合、最寄りの大きな空港はゲルゼンキルヒェンの南西約40キロにあるデュッセルドルフ空港。東約45キロにはドルトムント空港もある。まずは鉄道でゲルゼンキルヒェン中央駅を目指すのが基本になる。
中央駅の地下1階から路面電車302番(ブーア方面)に乗れば、約15分で「VELTINS-Arena」停留所に着く。この停留所はバリアフリーではないため、車いす利用者などは約15分歩くヴィリー・ブラント・アレー停留所の利用が案内されている。シャルケのホームゲームのチケットには、地域交通連合VRRの公共交通の運賃が含まれている。
チケットは公式チケットショップ(tickets.schalke04.de)で販売され、販売はまず会員向けの先行販売から始まる。ドルトムント戦やバイエルン戦は会員1人あたりの購入枚数も制限されるほどの人気。会員以外のファンにとっての主な窓口は、使わないチケットをファン同士で譲り合う公式の「チケットベルゼ」で、開設が告知されるとキックオフまで購入できる(手数料が上乗せされる)。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。