Fußball-Club St. Pauli von 1910 e.V.
ドイツ北部の港町ハンブルク、歓楽街レーパーバーンのすぐそばのザンクト・パウリ地区を本拠とするクラブ。髑髏(ドクロ)の旗と反差別を掲げるファン文化で世界的に知られ、会員が運営の主役であり続ける「街のクラブ」だ。2015年から6年間は宮市亮が在籍し、2026-27シーズンは2部で藤田譲瑠チマ・安藤智哉・原大智の3人がプレーしている。
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2026-27シーズンの2.ブンデスリーガで8位(18チーム中・勝ち点12)順位表 →
今季成績は2026-27シーズン(7月1日以降)の公式戦すべての合計です。
ルーツは1862年創立の体操クラブ「ハンブルク=ザンクト・パウリ体操協会」。1899年に競技部門ができ、1907年からサッカーが始まった。1909年に茶と白のユニフォームが導入されてこれがクラブカラーとなり、1910年に北ドイツサッカー協会へ加盟(クラブの創設年は1910年とされる)。1924年に体操協会から独立し、FCザンクト・パウリとして歩み始めた。
1946年11月にハイリゲンガイストフェルト(港近くの広場)に新しいグラウンドを開き、戦後すぐの1946-47シーズンにはハンブルクの市リーグを制した。1963年に現在のミラーントア・シュタディオンが完成。1963年のブンデスリーガ発足時には加われなかったが、当時2部にあたるレギオナルリーガ・ノルトで4度優勝し、1977年5月に初めて1部へ昇格した。しかし1年で降格し、1978年にはライセンスを剥奪されてアマチュアリーグからの出直しを強いられた。
1980年代半ばになると髑髏の旗がスタンドに翻るようになり、反骨のクラブとしての色が濃くなっていった。1988年5月に1部へ復帰し、その後も1995年・2001年と昇格を果たす。2002年2月6日には、直前に世界一(インターコンチネンタルカップ)となったバイエルン・ミュンヘンをホームで2-1で破り、「世界王者を倒した者(Weltpokalsiegerbesieger)」と書いたTシャツが名物になった。ところが同じシーズンに降格し、2003年には3部まで転落。約195万ユーロの資金不足に陥ったが、Tシャツ販売や募金を募る「レッター(救済者)」キャンペーンでクラブ消滅の危機を乗り越えた。
2005-06シーズンには3部ながらDFBポカールでクラブ史上最高のベスト4に進出。2007年に2部、2010年に1部へ戻り、2011年2月には敵地でハンブルガーSVとの市ダービーを1-0で制した。その後は2部が長く続き、2015年夏にはアーセナルから宮市亮が加入。2022年12月に29歳のファビアン・ヒュルツェラーが監督に就くとチームは一変し、2024年5月12日に13年ぶり6度目の1部昇格を決め、2部優勝も果たした。
アレクサンダー・ブレッシン監督のもと、2024-25シーズンは14位で1部残留。同じ時期、会員らが出資する協同組合を立ち上げ、スタジアム運営会社の過半を取得する計画に2万人超が参加した。2025-26シーズンは藤田譲瑠チマが中盤の柱となり、冬には安藤智哉と原大智も加入したが、最終節で残留を争うヴォルフスブルクに1-3で敗れて最下位で降格。2026年6月にマルセル・ラップ監督が就任し、2026-27シーズンは2部で1部復帰を目指している。
エンブレム公式エンブレムは、ハンブルク州の紋章をアレンジしたもので、クラブの母体となった体操協会が先に使っていた意匠を受け継いでいる。一方、クラブの「もうひとつの顔」として知られるのが髑髏と交差した骨のマーク。1980年代半ばにファンがスタンドへ持ち込んだ海賊旗が始まりで、「貧しい者が金持ちに挑む」というアンダードッグの象徴として定着し、のちにクラブが権利を取得してグッズやユニフォームにも使われるようになった。クラブカラーは1909年以来の茶色と白。
愛称: キーツキッカー(Kiezkicker)
| シーズン | リーグ | 順位 | トピック |
|---|---|---|---|
| 2021-22 | 2.ブンデスリーガ | 5 | 前半戦を首位で折り返したが失速。DFBポカールはラウンド16でドルトムントを2-1で破り、準々決勝でウニオン・ベルリンに敗退[2][3] |
| 2022-23 | 2.ブンデスリーガ | 5 | 12月にヒュルツェラーが監督に就任し、後半戦17試合で13勝。DFBポカールは2回戦でフライブルクに延長の末敗退[2][3][34] |
| 2023-24 | 2.ブンデスリーガ | 1 | 2部優勝で13年ぶりの1部昇格。DFBポカールは準々決勝でデュッセルドルフにPK戦で敗退[2][3][13] |
| 2024-25 | ブンデスリーガ | 14 | ブレッシン監督の1年目。最終節の1つ前に残留を決めた。DFBポカールは2回戦でRBライプツィヒに敗退[2][3][14] |
| 2025-26 | ブンデスリーガ | 18 | 藤田譲瑠チマの加入1年目、冬に安藤智哉・原大智が加入。最終節でヴォルフスブルクに1-3で敗れ最下位で2部降格。DFBポカールは準々決勝でレヴァークーゼンに0-3で敗退[2][15][17] |
戦後のオーバーリーガ・ノルト時代を主将として支え、同リーグで336試合に出場。2010年の「世紀のイレブン」に選ばれ、2013年にはスタジアム南側の広場が「ハラルト・シュテンダー広場」と名付けられた。[1][28]
3度の在籍でリーグ戦159試合108得点。1976-77シーズンには2部北で27得点を挙げて得点王となり、クラブ初の1部昇格の原動力になった。[1][29]
1974年にユースへ入り、トップチームではリーグ戦318試合に出場。英語版Wikipediaの記録表では公式戦476試合でクラブ最多出場とされる。[1][30]
ブンデスリーガ177試合・2部178試合に出場し、1部出場数はクラブ最多。引退後もアシスタントコーチや監督としてクラブを支えた。[2][31]
リベロとして公式戦260試合に出場した後、監督として2007年に2部、2010年に1部への昇格を果たした。3部からの再建期を象徴する人物。[1][32]
ハンブルク警察の刑事として働きながらプロでプレーし、リーグ戦273試合30得点。2010-11シーズンのハンブルク・ダービーでは先制点を決めた。伝記の題は「ザンクト・パウリの心臓」。[1][33]
2022年12月に29歳で監督に就任し、2023-24シーズンに2部優勝と13年ぶりの1部昇格を達成。2024年6月にブライトンへ引き抜かれ、プレミアリーグ史上最年少の正監督になった。[3][34]
オーストラリア代表の主将も務めたMFで、主将として2023-24シーズンの2部優勝・1部昇格を牽引。社会問題への発言でも知られた。2026年8月にセレッソ大阪へ移籍した。[35][36]
2019年3月の契約延長時、重傷が続いた苦しい時期に支えてくれたクラブとサポーターへの感謝を述べ、ハンブルクとザンクト・パウリは「第二の故郷」になったと語った。家族とともにこの街とクラブを愛しているという。[22]
— 宮市亮
加入発表の際、ザンクト・パウリは評判の良いクラブだと話し、新しいチームと街、そして何よりファンに会えるのを楽しみにしていると語った。[23]
— 藤田譲瑠チマ
加入前に日本代表で一緒だった藤田から「ファンが素晴らしい」と聞いており、実際にプレーしてそれを実感したという。大敗した試合の後も声援を送り続けたサポーターを称え、ハンブルクでの生活にもなじんできたと話した。[27]
— 安藤智哉
加入発表の際、新しいチームメートやブンデスリーガでの挑戦とともに、ミラーントアのファンの前でプレーすることを楽しみにしていると語った。[25]
— 原大智
ハンブルク市全体は札幌市(約196万人)に近い規模
ハンブルクはベルリンに次ぐドイツ第2の都市。エルベ川の河口域に開けた港町で、ハンブルク港はドイツ最大、欧州でもロッテルダム、アントワープに次ぐ規模を誇る。海洋性の気候で夏は涼しく、雨の日が年に190日近くある。
ザンクト・パウリはその中心部、エルベ川沿いに広がる面積2.3平方キロの下町。かつて「ハンブルガー・ベルク」と呼ばれた郊外で、1833年にザンクト・パウリ教会にちなむ現在の名前になった。南側の「キーツ」と呼ばれる一帯には、17世紀にロープ職人が住んだことに由来する歓楽街レーパーバーンが延び、川岸には遊覧船や港のフェリーが発着するザンクト・パウリ桟橋(ランドゥングスブリュッケン)がある。
ビートルズが1960〜62年にこの地区のクラブなどで200回以上演奏したことでも知られる音楽の街。1981年からは港沿いのハーフェンシュトラーセで空き家占拠が続き、権力に抗う土地柄の象徴になった。スタジアム脇の広場ハイリゲンガイストフェルトでは、年3回、約4週間ずつ移動遊園地「ハンブルガー・ドーム」が開かれ、観覧車がスタンド越しに見える。
ハイリゲンガイストフェルトの一角、巨大なコンクリート建築「フェルトシュトラーセ・ブンカー」とレーパーバーンの歓楽街に挟まれた場所に建つ。1960年代初めに建設が始まり、1963年11月に正式な開場を迎えた。名前はかつてのハンブルクの城門「ミラーン門」に由来する。2006年末から2015年7月にかけて南・メイン・バック・北の各スタンドを順に建て替え、現在の姿になった。
1970年から1998年までは元会長の名を冠した「ヴィルヘルム・コッホ・シュタディオン」と呼ばれていたが、コッホがナチ党員だったことから会員の決定で元の名前に戻され、2007年には命名権を売らないことも決めた。ファシズム的・人種差別的なチャントを最初に禁じたスタジアムとされ、メインスタンドと南スタンドの間には子ども約100人が通う保育園「ピラーテン・ネスト(海賊の巣)」まである。
1946年にハイリゲンガイストフェルトに造られた旧グラウンド。1963年の国際庭園博覧会の会場整備のため1961年に取り壊された。
育成拠点はハンブルク市内のブルンマースカンプにある。2003年の経営危機の際には、この育成施設を市に72万ユーロで売却して資金を確保した歴史がある。サッカー以外の会員で作る部門「AFM(支援会員部門)」は2万人を超える会員を抱え、ユースチームの活動を支えている。
日本人の母を持つニック・シュミットは2015年からこのアカデミーで育ち、2025-26シーズンに初のプロ契約を結んだ。
主な出身選手: ニック・シュミット
髑髏の旗は1980年代半ば、「ドク・マブゼ」と呼ばれたファンがスタンドに持ち込んだのが始まりとされ、「貧しい者が金持ちに挑む」クラブの象徴になった。1990年にはファンの拠点「ファンラーデン」が誕生。現在はバックスタンドの中にあり、若いファンの暴力防止やU-18向けのアウェー遠征などを手がけている。
1991年の総会でネオナチの締め出しと反ファシズムをクラブの方針として決め、ミラーントアはファシズム的・人種差別的なチャントを最初に禁じたスタジアムとされる。2009年に定めた「基本理念(Leitlinien)」は2024年に改訂され、差別への反対や地区への責任、「より良いファン・より悪いファンはいない」といった考え方を、会員・スタッフ・ファンが共有する指針として掲げている。
会員数は5万5,000人を超え(2026年2月)、登録ファンクラブは900以上(2026年5月)。2024年11月からはドイツのプロサッカー界で初めてとされる協同組合方式でスタジアム運営会社の過半を取得する資金を募り、2025年3月末までに2万2,000人超が約2,900万ユーロを出資した。セルティック(スコットランド)のファンとの交流も深い。
日本からはヨーロッパの主要空港で乗り継ぎ、ハンブルク空港へ。空港ターミナル直結の駅からSバーンS1線が10分おきに出ており、中央駅まで約25分。中央駅からは地下鉄U3線に乗り、「St. Pauli」駅か「Feldstraße」駅で降りればスタジアムまで徒歩約3分。港のランドゥングスブリュッケン駅からも歩いて約15分で行ける。
周辺は一年を通して駐車場が少なく、ハイリゲンガイストフェルトの有料駐車場もハンブルガー・ドームの開催期間中は使えないため、公共交通が基本。試合日には南スタンド前に約700台分の無料駐輪場が開く。
人気が高く、リーグ戦のチケットは原則として入会3か月以上の会員にしか先行販売されない。一般のファンが現実的に狙えるのは、公式オンラインショップ内の「チケット再販市場(Zweitmarkt)」。会員でなくても利用でき、定価に15%の手数料を加えた価格で、キックオフ3時間前まで購入できる(モバイルチケットかプリント・アット・ホーム)。販売開始のタイミングは試合ごとに公式サイトで告知される。
クラブ紹介は 2026年11月5日 時点の調査です。試合・順位・成績のデータ提供: API-Football。エンブレムはクラブの識別のために表示しています(権利は各クラブに帰属)。