サッカーというのは残酷なスポーツだと、つくづく思う。
ピッチに立ち続けてきた人間なら分かる。ハムストリングはその日まで何の予兆もない。踏み込んだ瞬間に「切れた」という感触があって、気づいたときにはもう地面に倒れている。三笘薫が先週のウルブズ戦で感じたのが何だったのかは本人にしか分からないが、ワールドカップ直前というタイミングの残酷さだけは、誰にでも想像できる。
医療スタッフが「大会までに回復が間に合わない」と判断した、とAsharq Al Awsatは伝えている。つまり時間との戦いに、負けた。それだけのことだ。だがその「それだけのこと」が、どれほどの痛みを伴うかを、外から測ることはできない。
久保建英が三笘に直接連絡を取ったと明かした。
"彼の負傷は本当に残念だ。彼は本当に重要な選手だ"
この言葉を、単なる社交辞令で読んではいけない。久保は余計なことを言わない選手だ。ピッチ内外で、言葉をむやみに使わない。だからこそ「直接連絡を取った」という事実と、「大変な時期だろう」という言葉の組み合わせに、何か本物のものが滲む。
問題は、三笘の穴が「戦術的に」どう埋まるか、ではない。
三笘薫という選手が日本代表にもたらしていたのは、1対1で仕掛けて抉り、そのまま局面を変える「個人の武器」だった。チームの組み立てとは別の次元で機能する、異質な刃。それを失ったとき、監督は「代わりのシステム」を探すしかなくなる。だが久保が担うのは、そういう話ではないだろう。
久保はW杯を2度経験する。25歳、レアル・ソシエダで揉まれてきた選手として、今大会に臨む。ラ・リーガの舞台で長い時間を積んできた人間は、同年代の多くとは違う種類の落ち着きを持っている。それは貫禄ではなく、むしろ「どんな局面でも自分のプレーに帰れる」という種類の成熟だ。
三笘の不在が久保に与えるのは、重荷というより、ある種の自由かもしれない。
チームの攻撃的な矢印が減った分、久保のところに局面が集まる。それはプレッシャーだが、同時に「中心にいることを認められた」ということでもある。そこから逃げない、と久保は言った。
日本はグループFでオランダ、スウェーデン、チュニジアと対戦する。6月14日のオランダ戦から始まるが、この組み合わせは決して楽ではない。三笘がいれば違ったかもしれない、という声は出るだろう。ただ、スポーツの歴史を振り返ると、欠場者が生んだ「空白」が、別の誰かを押し上げる例は珍しくない。誰かがいなくなったから、別の誰かが見つかった。そういう話は、案外多い。
久保がその「別の誰か」になれるかどうか。
少なくとも本人は、覚悟を声に出した。アメリカ、カナダ、メキシコで開かれるこの大会を「逃さない」と。それは三笘への言葉でもあり、自分自身への宣言でもある。
ピッチに立てなかった者の分まで走ることが、本当に可能かどうかは分からない。だが、引き受けようとしている人間がそこにいる。それだけでも、少し違う。
